南北相法巻ノ三

水野南北居士著

門人 平山南嶽・水野八氣 校


《身体の三停の事》

一 頭は円く天に応ずる。よって、目上の官を司り、総運を司る。また、初年運(20歳まで)を司る。
 
一 胴体は人(じん)に応ずる。よって、己(おのれ)を司り、貧福を司る。また、中年運(21~40歳まで)を司る。
 
一 腰から下は地に応ずる。よって、家(家庭)を司り、目下(部下)の官を司る。また、老年(晩年、41歳~)運を司る。
 
一 頭が大きい者は初年が良くない。また、目上(上司)と意見が合わない。また、頭が小さい者も初年が悪く、親に縁が薄い。
 
一 胴体が大きく、豊かな者は身内の上に立ち、発展がある。逆に、胴体が小さい者は我徳が無く、病弱で、根気が薄い。
 
一 腰から下が細い者は家庭の事で苦労が多く、病弱である。逆に、腰から下が正しく、豊かに観える者は家庭のおさまりが良く、心が豊かである。また、腰から下が太くても、正しく(整って)無く、格好が悪いように観える者は人の上に立つ事が出来ない。他の事は深く考えなさい。
 
杉本四郎兵衛が問う
胴体が大きく、頭が小さい者は目上に背く(反抗する)、と言うのは何故でしょうか。
答える
胴体は己(自分)である。頭は目上の官である。ゆえに、頭が小さいというのは、己の身体が目上の官に勝(まさ)るに等しい。よく考えなさい。また、天地(頭部と腰部以下)が大きく、胴体(人)が小さい者は天と地が低く迫っているようなもので、抜きんでる事は出来ない。ゆえに、己に徳が無い、と言う。道徳がある者はその胴体が健やかで豊かである。また、身体が豊かであれば、その身も堅固である。胴体が大きく、豊かに観える時は自分の身体が天地に普(あまね)く秀でているに等しい。ゆえに、発展があると言う。
 
辻太郎兵衛が問う
腰から下が細い者は家庭の事で苦労が多い、と言うのは何故でしょうか。
答える
腰から下が細い者は地の道理が薄いようなものである。ゆえに、住居に苦労が多い。逆に、腰から下が太く、豊かである者は、地が豊かであるに等しく、家の治まりが良い。よく考えなさい。
 

《骨肉の事》

一 骨は一身の柱である。ゆえに、その身体の強弱を観る。また、命の長短を知る。
 
一 骨が太い者は身体が強く、長命である。
 
一 骨が細い者は一身の柱が細いようなもので、身体が弱く、短命である。
 
一 また、骨が細くても、俗に言う「堅肥(かたぶと)り」のように、肉に締まりがある者は身体が強い。また、身を楽に暮らす事が出来るが、苦労が多い。
 
一 骨が太くても、その身体が力士のようにゴツゴツしている者は、身を楽に暮らすことが出来ない。また、人の上に立つ事も出来ない。
 
一 肉(皮下脂肪及び筋肉)は、生涯の福分について恵まれるか否か、を観る。また、子供の有無を知る。
 
一 身体が痩せていて肉が薄い者は、大地が痩せているようなもので、万物を生じ難い。よって、福分に恵まれる事も少ない。さらに、自分から生ずる子孫にも縁が薄い。
 
一 身体が肥(こ)えていて、肉が多い者は、身分相応に福分が巡る事がある、と観る。
 
一 身体が肥えていて、肉が多くあっても、俗に言う「豚(ぶた)肥(ご)え」のように、肉に締まりが無い者は、その当時は職業が安定し難い。また、物事が調い難く、子供に縁が薄い。もし、子供があったとしても、頼りにならない。
 
一 肉が相応にあり、がっしりとして身に潤いがある者は、身分相応の福分に恵まれるなど、非常に良い。だが、人の世話をする事が多い。
 
一 肉が少なく、身に潤いが無く、枯れたような感じの者は、非常に悪い。万事において、滞りが多い。また、その当時の望みは叶(かな)わない。
 
一 身体が痩せていて、肉が少なくても、身に潤いがある時は、その当時は順調である。また、自分の心に自然と気力が湧(わ)いてくる。
 
赤穂太助が問う
骨が細くても、堅肥りの者はその身体が強い、と言うのは何故でしょうか。
答える
堅肥りとは、皮膚と骨が豊かに融合している状態を言う。皮膚は外側にあるので臣(部下)とする。骨は内にあるので君(上司)とする。ゆえに、堅肥りは一身の君臣が豊かで、よく調っているに等しく、その身体が強い、と言う。骨が太く、ゴツゴツしている者は身体の君(骨)が賤しいに等しく、身を楽に暮らす事が出来ない。
 
また問う
肉は何に応じて何を司るのでしょうか。
答える
肉は地に応ずる。地は厚く、豊かで、万物を生み出す事を司る。ゆえに、肉で生涯の福分を観るのである。また、己から生ずるものは子孫であり、それゆえ、子孫の有無も知る事が出来るのである。
 
杉本四郎兵衛が問う
肉が多くあっても、豚肥えで、肉が締まっていない者は仕事が安定し難い、と言うのは何故でしょうか。
答える
豚肥えのように肉が締まらない者は、大地に水気が多く、大地が締まらないに等しい。ゆえに、仕事が安定し難く、物事も調いが悪い、と言う。逆に、肉が多くあって、身に潤いがある者は「生地の肉」と言い、土に勢氣の潤いがあるに等しい。ゆえに、草木(くさき)も生じやすく、人もこれに準じて、万物に自然と恵まれる。この事はよく考えなさい。
 
また問う
では、肉がほとんど無く、身に潤いが無く、枯れたような感じがする者はどう観るのでしょうか。
答える
肉が薄く、身に潤いが無く、枯れたような感じがする者は「死地の肉」と言って、草木が生まれ難い。ゆえに、人においても、万物に恵まれ難い。他の事はよく考え、知りなさい。私の浅い道理をもって、ここに示す。
 

《皮(皮膚)の事》

一 皮は一身において、天とする。ゆえに、運の善悪(よしあし)、生涯の貧福を観る。
 
一 皮が厚く、豊かである者は、天を完全な状態で保持して、豊かであるに等しい。ゆえに、運が強く、相応に福分があり、身体が強い。
 
一 皮が薄い者は運が悪い。福分が薄く、根気も薄い。
 
一 皮に潤いがある時は、天時の潤氣がよく巡っているに等しく、その当時は物事の調いが良く、運が強い。逆に、皮に潤いが無い時は天時の潤氣が巡っていないようなもので、その当時は運が悪く、物事の滞りが多い。
 
尾島正安が問う
皮を天とするのは何故でしょうか。
答える
皮は一身の肉を掩(おお)うものであり、天は万物を掩(おお)うものである。ゆえに、皮は一身における天に相当し、皮で運の善悪を弁ずる事が出来る。また、生涯の貧福を知る事が出来る。天は満ちていて、地は豊かであるのが良い。つまり、皮は厚く、豊かであるのを良しとする。他の事は深く考えなさい。
 

《毛の事》

一 手足に黒く観えるほど毛が生えている者は、家庭を崩壊させたり、破産する。また、子供に縁が薄い。
 
一 胸毛が多くある者は小心で、ちょっとした事に驚く。俗に、「七(なな)つ毛(げ)が長く多く生えている者は、身を楽に暮らす」と言う。だが、実際は辛労が多い。貴人や福者は考慮に入れない。

*七つ毛…手足の指に生える毛の事を指す。
 
一 男根の毛(陰毛)が臍まで続く者は女の氣を楽しむ。色(いろ)に深い、と言う事では無い。よく考えなさい。
 
一 陰部に毛が多く生える者は色に深い。
 
一 陰部に毛が少ない者も色に深い。

*色…情事。恋愛。いろごと。情人、恋人との事。つまり、ここで言う「色に深い」とは、欲情が強く、恋愛や肉体関係に溺れやすい事を指す。つまりは淫乱である。淫蕩に溺れやすい人相(手相も含め)は色々あるが、ここでは長くなるので触れない。基本的には、骨格(手相も含めた人相全体)や声などに原始的(ゴツゴツしていたり、荒々しく、美しくない)な相が多ければ多いほど、原始的な欲求(性欲、食欲、物欲など)が強いと観て間違いない。相は中庸であれば、その内実も中庸であるが、逆にパーツが整い過ぎていたり、肉付き(特に涙堂(眼の下の膨らみ)や唇など)が良過ぎたり、艶が有り過ぎても、原始的な欲求が強い事があると観る。ほとんどは、まず眼に異常がある(眼光がギラギラしていたり、ウルウルしすぎて、ボヤーッとしているなど)。特に、左右の目と眉の間隔が広かったり、鼻が子供のようであったりするのも淫蕩に溺れる相で、浮気がやめられない相であると観る。手相では金星丘(親指の下の膨らみ、母指球筋の上の所)が大きく膨らんでいて、生命線の張りが強い、などの観方がある。
 
一 股(もも)の後ろ、腓(こむら、ふくらはぎ)、尻の穴周辺、この三か所に毛が多く生える者は良い。また、尻(しり)髭(ひげ)が多く生える者はその身体が強い。
 
辻太郎兵衛が問う
全身に毛が多く生える者はどう観るのでしょうか。
答える
全身は土(つち)に応ずる。毛は草木(くさき)に応ずる。また、身体の前面は陽であり、繁花(繁華)の地に応ずる。逆に、後面は陰地であり、辺地に応ずる。辺地は草木がよく生ずるので、良い土地である、と言う。ゆえに、股の後ろ、腓あたりに毛が多く生ずる時は、辺地に草木がよく生ずるのに等しく吉である、と言う。また、身体の前面に毛が多く生ずる時は繁華の地に草木が多く生ずるに等しく、ゆえに悪い、と言う。
*中医学(鍼灸)では体の前面を陰とし、後面を陽とするが、これは正しくない。なぜなら、四足歩行の動物にとって陽があたる部分が背中ゆえ、背中を陽面としたと言っても、人は遥かに脳が進化した、二足歩行生物であり、動物では無いのである。ゆえに、そのまま、その理論を流用することには無理がある。鍼灸の世界では、人間の経脈などを、そのまま動物に流用し、治療している者がいるが、これは全く別物であると考え、理論を再構築し、治療を考えるのが正しいと、私は考えている。
*繁花(繁華)の地…賑(にぎ)やかで、繁栄している土地。都会。
*辺地…繁栄していない土地。不便な土地。田舎。湿気の多い土地。森や林などは水気や、木が作り出す影が多く日当たりが悪いため、陰陽説では陰地とする。また、木やその他の植物は、動物に必要な酸素や水、薪、食物などを生み出すという点からみても、動物を陰で支える隠者であり、ゆえに「陰」であると捉える事も出来る。陰地だから悪いというわけではない。陰にも陰陽(良悪)は存在するのであり、例えば、神社は全て陰地であるが、気味の悪い神社もあれば、清々(すがすが)しい神社もある。
 
また問う
では、男根の毛が臍まで生え上がってくる時は女の氣を楽しむ、と言うのは何故でしょうか。
答える
毛は血(けつ)の苗であり、腎に属す。つまり、陰面である腎陰に集まった毛が、陽面に発現したようなものであり、ゆえに、女の氣を楽しむ、と言う。よく考えなさい。
 

《青筋(あおすじ)の事》

一 青筋は氣血が巡っているか、否かを観る。

*青筋…現代解剖学的に解せば、静脈の事。簡単に言えば、静脈が怒張しているか否かを観る。例えば、顔では皮膚の薄い、妻妾(目尻、コメカミ)や印堂(眉と眉の間、正中部)の青筋が観やすい。また、白目の部分の静脈の怒張もわかりやすい。妻妾に静脈の怒張がある場合は、男女関係でトラブルがある(細かい観方は後述)。眼球の白目部分に静脈の怒張がある場合は、精神不安定、ヒステリー、処女、生殖器の障害などを暗示する。青は肝の色でもあり、果実で言えば熟れていない状態を示す。つまり、肝は怒りを支配するので、肝氣が強くイライラしがちであったり、男女関係が少なく身体が成熟していない、生殖機能に異常がある、などと観る。
 
一 常に、顔や手足に青筋が多く現れている者はイライラしがちである。だが、気を使うので、身を楽に暮らす事が出来る。子供には縁が薄い。

*南北相法には、「気を楽に暮らす」と「身を楽に暮らす」という言葉が対照的に使用されている。簡単に言えば、前者は精神面において楽に暮らす事を指し、必ずしも物質的に恵まれているとは限らない。逆に後者は物質面において楽に暮らす事を指し、精神面での享受があるとは限らない、と言える。
 
一 青筋が肉に包まれている者は、その身体が強い。また、無病で子供に縁がある。
 
一 基本的に、痩せている者は、青筋が皮膚表面に現れる。太っている者は、青筋が皮膚底面に現れる。だが、肝氣が逆立つ時は、青筋が上面に現れる。
 
一 痩せていても、青筋が底面に現れている者は、その当時は身体が強く、相応の福分がある。
 
一 太っているのに、青筋が上面に現れている者は下相であり、非常に悪い。武士は考慮に入れない。
 
一 足に虫がうねるような青筋が現れている者は、長命である。よく考えなさい。
 
尾島正安が問う
青筋が多く現れる者はどう観るのでしょうか。
答える
青筋は肝・木を司る。また、肉は地に応ずる。よって、青筋が現れる時はその地が痩(や)せて、肝(木)が自然に絶えるようなものである。ゆえに、肝氣が盛んとなり、青筋が惣(そう)身(み)に現れるのである。また、青筋は肝氣の苗であり、気血が通る道でもある。よく考えなさい。

*惣身…そうしん、とも。「惣」は「総」の俗字なので、総身(全身)の意。
 

《言語(言葉、声)の事》

一 言語はその人の貴賤を観る。
 
一 言葉が賤しい者は、その心もまた賤しい。
 
一 貴人は自然とその言葉が貴(とうと)い。
.
一 心を貴くする時は、その心に応じて、言葉も自然と貴くなる。
 
一 言葉が忙(せわ)しい者は、心が忙しく、心がはっきりしない。ゆえに、心に深みが無い。
 
一 言葉が豊かである者は、自然と心気を保つ事が出来る。ゆえに、根気強く、心が豊かである。
 
一 言葉がさわやかな者は心もさわやかであり、愛嬌がある。
 
一 言葉が清き者は心が清い。
 
一 言葉がさわやかで無い者は辛労が多い。
 
一 言葉が活発な者はその心も活発である。
 
一 言葉が速い者はその心も速い。また、心に深みが無い。
 
一 言葉が大きい者は大きな仕事が出来ない。出来たとしてもすぐにダメになる。
 
一 言葉が豊かな者は才能があるが、心に一物(いちもつ)がある。
 
一 言葉がさわやかで、柔らかにしゃべる者は、大きな仕事が出来るが、侫奸(ねいかん)である。この事は深く考えなさい。

*侫奸(ねいかん)…弁舌巧みだが口先だけで、腹黒い人の事。表面は柔和であるが、下心がある人の事。
 
一 男で、女のようにしゃべる者は才能が無く、発展し難い。
 
一 声が大きく、余韻がある者は非常に良い。自然と重用される。
 
一 頭のてっぺんから声が出るような者は、精神的安定を得る事が遅い。また、家庭が落ち着く事も遅く、子供に縁が薄い。
 
一 上擦(うわず)るように胴から声が出る者は、身体が強い。病気になる事が少ない。
 
一 声が口先から出る者は心に深みが無く、精神的安定を得る事が遅い。
 
一 声がどもる者はイライラしやすい。また、少しの事に囚(とら)われる人である。
 
一 言葉がぎこちない(なめらかでない)者は心に徳が無い。また、心に深みが無い。
 
一 言葉が濁る者は必ず、中風(ちゅうふう)の病に罹(かか)る。この事は、中風に罹っている人の言葉を聞いて知るべきである。

*中風…主に、脳出血後の半身不随の事を指す。
 

《息を論ず》

一 息は丹田から出て、腎氣に応ずる。ゆえに、息は腎氣の強弱を観る。また、心気の吉凶を知る。
 
一 息が豊かである者は腎気が強い。ゆえに、根気が強い。
 
一 腹が大きい者は息が豊かである。逆に、腹が小さい者は息が忙しく、速い。
 
一 腎氣が衰える時は、息も自然に衰えて、速くなる。この事はよく考えなさい。
 
一 鼻で呼吸する者は、自然と神気を保ち、病気になる事が少ない。また、長命である。この事はよく考えなさい。
 
一 口で呼吸する者は、自然と神気を漏(も)らす。ゆえに、腎氣が衰え、根気が薄くなり、短命となる。
 
一 頻繁にため息をつく者は腎氣が弱く、自然と心気が薄い。ゆえに、根気が薄い。
 
一 寝ている時、「いびき」と言って息が響く者は腎氣が強く、身体が強い。
 
一 寝ている時、「いびき」が無い者は腎氣が弱く、根気が薄い。
 
一 息が豊かで長い者は、心が豊かで、身体が強く、長命である。

*「長生き」という言葉があるが、これは本来「長い息」の意である。息は腹式呼吸で行い、長く深いのが良い。誰が言い出したのかはわからぬが、日本語にはこういった隠し言葉が沢山ある。ちなみに、最近、とある健康法で胸式呼吸を勧めているが、あれは良くない。ここではその理由についての詳細は省くが、かつて肥田春充が胸式呼吸を取りやめたように、胸式呼吸には弊害が多い事を知るべきである。基本的に人間は男女とも、15歳くらいまでは腹式呼吸が主なのだが、女性は初潮が来る頃からは身体が妊娠する方向にシフトしていくため、胸式呼吸が主になる。私は胸式呼吸が1つの要因となり、女性に特有の冷え症や頭痛、腹痛をはじめ、膠原病などが多発するのではないかと考えている。
 

《言語の五行を論ず》

一 言葉が清く、素直な者は木言(もくげん)と言い、人に自然と用いられる。また、福分があり、人柄が良い。
 
一 言葉が騒がしく、愛想が無い者は火言(かげん)と言う。この人は常に心が落ち着かず、人に用いられる事が少ない。また、人を傷つける事がある。
 
一 言葉が重く、胴から声が出るような者は土言(どげん)と言う。人の世話が多く、涙もろい。食に困る事は無い。
 
一 言葉がさわやかで、声に余韻がある者は金言(きんげん)と言う。この人は心が正しく、人の愁(うれ)い(悲しみ)をみれば、共に悲しむ人である。
 
一 言葉が清く、豊かでさわやかな者は水言(すいげん)と言い、丈夫な人である。だが、ちょっとした事に驚き、愛嬌がある。他の事はよく考えて知りなさい。
 
松浦専平治が問う
言語で人の貴賤を弁ずる事が出来るのは何故でしょうか。
答える
言語は丹田から出る。つまり、法界(ほっかい)の音声(おんじょう)に応ずる。風は木の葉を鳴らし、波は砂石(させき)を打つ。すなわち、これは法界の音声である。風が止(や)めば木の葉は鳴らぬし、波がなければ砂石を打つ事も無い。言語は己(おのれ)の内にあり、己を現わす。ゆえに、言語で人の貴賤を知る、と言うのである。他の事はよく考えなさい。
*法界…仏教用語である。真理の現れとしての全世界。真実そのもの。「真如」「実相」などと同義。十八界に含まれる六境の一つでもある。
*音声…ここでは、「音色」と考えるとわかりやすい。
*砂石…砂と石。
*十八界…六根、六境、六識を合わせたもの。
*六根…南北相法の第一巻の冒頭にも出てきたが、感覚や意識を支配するとされる眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器・能力の事。山中などで、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)~」と唱える修行僧をみた事がある人もいるかもしれない。これは、六根に起因する煩悩を断たんとするための、真言みたいなものである。
*六境…六根(感覚器)の対象となる六つの領域の事。色・声・香・味・触・法の六つ。これらは心を乱すものとなりやすいので、六(ろく)塵(じん)、六賊(ろくぞく)とも言う。
*六識…六根、六境の和合によって生じるものであり、心のもつ六種の働き。眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ。
 
一 息が忙しい者は身体が弱い。呼吸(特に吸息)は長いほど良い。よく考えなさい。
*実際は呼息、吸息ともに適度に長く、深いのが良い。
 
一 頭は天であり、六つの陽穴、六根が存在する。これらは全て「六」であるので、顔面部正面は縦に六寸と定める。顔面部は頭部に対して地であり、方形である。方形は四つの点から構成されるゆえ、四の数が内包されている。さらに、顔面部は地の五行を備えるので、方形の「四」と地の五行の「五」を合わせて「九」となる。ゆえに、顔面部の横幅は九寸とする。天(頭部)に六、地(顔面部)に九、掛けると五十四寸(五尺四寸)となり、これが人における、おおよその数となる。だが、人には長短があり、長短によってその人の生涯の吉凶を定める事が、相法における重要な点である。この事は深く考えて知らねばならない。これには少々口伝がある。しかし、よく考えなさい。自分で会得するために、深く深く考えるのである。

*これは、南北相法において最も抽象的かつ、重要な文章である。南北翁が、口伝がある、と述べているのはこの文章が最初である。
*陽穴…原文では「陽穴」となっているが、ここは「陽経」でないと意味がわかりにくい。前にも説明したが、頭部には六つの陽経が通っている。わからぬ人は前出要参照。
*ちなみに、正中で、前髪際から後髪際までは1尺2寸(12寸)である。顔面部は上下の長さが6寸なので、合計すると18寸である。18は十八界の18に通じ、頭部に十八界が存在する点と一致しているのが興味深い。また、十八界は脳が作り出すものであると暗示しているようで面白い。
*地の五行…ここでの話ならば、「五岳」や「五星」で考えても理解可能である。五岳とは支那相法(中国相法、主に、初代櫻井大路が完訳した『神相全編』による相法)による解釈で、額を南岳、右頬を西岳、左頬を東岳、顎を北岳、鼻を中岳とする観方である。五星は同様に顔面部を火星(額)、木星(右耳)、金星(左耳)、水星(唇)、土星(鼻)とする。
 

《歩行を論ず》

一 人が歩く時は一陣の備えを立て、道をゆくようなものである。ゆえに、その身体が正しく、豊かに歩く者は一陣の備えが崩れないに等しい。よって、この人は心が豊かであり、分相応に暮らす。この事はよく考えて知るべきである。
 
一 身体が定まらず、そわそわするように歩く者は、一陣の行列が崩れているようなものである。ゆえに、この人は心が安定しておらず、職も安定しない。よく考えなさい。
 
一 仰向くようにキョロキョロしながら歩く者は、「志(し)らむ」と言い、心が空中にあり、非常に悪い。また、万事が安定せず、神気が薄い。

*志らむ…「白らむ(暮らしが衰える)」と掛けている言葉だと思われる。なぜなら、次の文章に「黒む(暮らしが立つ)」が対照的に使われているからである。ここでは「志」+「あらむ(ん)」。志は心が向かう場所、目的などの意。志が向かう場所が無い→心が浮ついている→上(うわ)の空、となる。
*心が空中にあり…上(うわ)の空、という意味。常に、口を開けた状態でポカンとしている者は特に悪い。子供がテレビをみながら口をポカンとしている時などは、閉じるように指導した方が良い。大人になって口をポカンとする癖がある者は強制しがたい。鍼灸の古典には「口を常に開けるものは脾虚である。」という記述があるが、実際、過食気味の者は常に口が開きっぱなしである事が多い。食べすぎは脳、身体の働きを緩慢にするし、集中力も落ちる。したがって、「ポカン」が常態化した者は飽きやすく、1つの事に集中出来ぬので、何か頼みごとをする時は、当てにしない方が良い。というか、何も頼まず、任せぬ方が賢明である。
 
一 身体が豊かで、脇目をふらず、少し下をみるように歩く者は、これを「くろむ」と言い、心が丹田に収まっており、非常に良い。また、人の上に立ち、分相応に暮らし、神気が強い。

*くろむ…「黒む」。生活が立つ、生計を立てるの意。「苦労無(くろうむ)」と捉える事も出来る。
 
一 身体がみすぼらしく、うつむくように歩く者は、子供に縁が薄く、苦労が多い。また、この人は倹約を第一とする。
 
一 道の端(はし)を歩く者は心が安定せず、職も安定しない。また、志が低い。
 
一 歩行時、身体が安定せず、何度も後ろを振り返る者は、近いうちに駆け落ちをする事がある。

*何度も後ろを振り向き、「キッ」と他の歩行者を睨(にら)みつけるようにして歩く者は、「狼行(ろうこう)」と言い、悪相の一つである。読んで字の如く、狼(オオカミ)のようにして歩くのである。ポケットに手を入れ、蟹股で道の真ん中を歩く、D○Nに多い歩き方である。関わらぬ方が良い。南北相法には歩行についての記述が少ないが、歩行を観相するだけでも、その者の性質・運命は手に取るように解る。
 
一 頭は天に応じ、貴人は天に例える。よって、貴人は自然と貴(とうと)く、頭を動かさずに、速く歩く事が出来る。これは、天が貴く、豊かであるに等しい。ゆえに、貴人は天の徳を得る人であり、下賤の者は地の徳を得る人である。つまり、下賤の者は裾(すそ)を動かさず、頭を速く動かしながら歩く。

*裾…衣服の下の縁、下半身。
 

《座形(座っている姿)を論ず》

一 座形は安重泰然として、軍中に一陣を立てるに等しいのが良い。これを「座相よく備わる」と言う。心が清直な者は座り方が自然と正しい。ゆえに、座相によって、心の清濁や職業の安定・不安定を観る。また、心気の強弱も知る事が出来る。
 
一 座形が豊かで、畳から生えているように座る者は、心が豊かで、相応の福分がある。また、自然と人を用いる。これを「生地(せいち)の陣を立てる」と言う。よく考えなさい。
 
一 座形が不安定で、畳に落ち着かない感じで座る者は、心が安定していない。家庭の事で苦労がある。これを「死地の陣を立てる」と言う。よく考えなさい。
 
一 座形が安定せず、死地の陣を立てていたとしても、心を正直にして、よく(真面目に)働く者は、必ず福分を得る事がある。よく考えなさい。
 
一 座形が安定していて、生地の陣を立てていたとしても、心が安定しておらず、自分の事ばかり考えている者は、死地の陣よりも劣っており、非常に悪い。この相の者については、論ずる価値さえ無い。よく考えなさい。
 
一 下人(下賤な者)は、貴人に相向かうと、必ず膝をすぼめて(膝を閉じて)座るものである。これは、一陣を潜(ひそ)めているようなものである。ゆえに、座る時、常に膝をすぼめる者には、必ず従っている目上が存在する。だが、常に礼儀正しい者については、深く考えなければならない。
 
一 自分より目下の者に相対する時は恐れる気持ちが無い。ゆえに、勢いよく膝を広げて座る時は、一陣を強く立てているようなものである。したがって、座ってのち、膝を広げる者は、人の下で働く事は無い。
 
一 座った時に足を重ね、身体が浮いているように座る者は、家庭が安定していない。また、心も安定していないので、一陣の備えが立っていないに等しい。ゆえに、この人は必ず下相である。この事はよく考えなさい。
 
一 座った時に尻がよく落ち着き、身体がみだりに動かない者は、心が豊かであり、家庭は自然と安定する。これは一陣の備えを得ているに等しい。また、長く座っていて、苦しむ者は心に毒が無い。だが、自分の心の中で、家庭の事がしっかりと定まっていない。
 
一 座形が豊かで、身体が安定しているのだが、萎(しお)れ、枯(か)れたように観える者は、まさに自分の一陣が衰えているに等しい。ゆえに、この人は暮らし向きが衰え、破産する。また、孤独相がある者には、その当時に大きな辛労も伴う。他の事は詳しく考えなさい。
 

《臥形(がぎょう、寝ている姿)を論ず》

一 臥形は心の正直さ、神気の強弱を観る。
 
一 寝ている時、笑っているように観える者は、心に毒が無い。また、一度、発展する事がある。
 
一 寝ている時、哀(あわ)れに観える者は、根気が薄く、短命である。また、淋(さみ)しく観える者も同様である。
 
一 寝ている姿に陽気がある(勢いがある)ように観える者は、その当時は良い。心に気力がみなぎっている。
 
一 寝入って、布団からはみ出る者は発展がある。逆に布団に潜り込むようにして寝る者は発展し難い。
 
一 寝入って、愁面(うれいがお、心配そうな顔)に観える者は発展し難く、苦労が多い。
 
一 縮こまって寝る者は根気が薄く、身体が弱い。
 
一 伸び伸びと寝る者は身体が強く、心が安らかである。
 
一 少し頭をうつむけながら、横向きに寝る者は、自然と神気を保つ。よって、根気が強い。また、身体も強く、勢いも強い。
 
一 仰向けに寝る者は、自然と神気をもらす。よって、根気が薄い。だが、肝氣は強い。
 
一 口を閉じて眠る者は自然と心気を保つ。よって、根気が強く、分相応の福分がある。

*心気…南北相法では「心気」と「神気」が混同されて使われているようである。南北相法自体、どのような形で編集されたのかわからないが、南北翁の口述記録がもとになっているならば、「しんき」を心気とするのか、神気とするのか、しっかりと確認していなかったために、このような事態になったのかもしれない(おそらく南北相法前篇が刊行された当時の南北翁は、完全な文盲とは言わずとも、まともに字の読み書きが出来なかったのであろう。ゆえに、校閲者とのやり取りに不具合があったとも考えられる。晩年は文盲をある程度は克服した様子で、翻訳等に心血を注いでいたようである)。また、寝ている時、神気が心にあれば「心気」とし、心から神気が離れると「神気」と区別していたのかもしれない。このあたりはまだ研究が必要である。
 
一 口を開いて寝入る者は、神気を漏らす。だが、神気の吉凶によって考えなければならない。

*神気の吉凶…この文章で、神気にも吉凶があることがわかる。神気について書いた本はほとんど無いが、神気を正気(せいき)と邪気(じゃき)と捉えるならば、この文章の意味を理解出来よう。つまり、口を開いて寝ていても、邪気を吐きだしているならば良い、と言う事である。一応、櫻井大路(たいろ)・高木乗共著『人相の秘鍵』から神気についての文を引用する。「神気とはその人の身体から発する御光のようなもので、旺盛ならば神が現れて他を照らし、神(しん)が無ければ影がうすく、今にも消えんとする有様を呈する。いわゆる影の薄い人は神の無い人である。盛んなる人には神気があり、衰える人には神気が無く、発達・成功する人には神気があり、卑賤貧困な者は神気が無い」「人間が覚めた時には神は眼に遊び、寝た時には神は心に遊ぶ」「神の無い者は会っても潤いが無く、感じが無く、淋しく、不愉快ではっきりしない。そのような人は神気が卑賤なのか、運が衰えたのか、発達する力が無い者か、または病人か、何かの曰くのつく人である」
 
一 寝ている時の姿が常に悪くとも、神気が強くなっている時は、その寝姿に自然と勢いがある。逆に、神気が衰えている時は、その寝姿が悪くなる。この事はよく考えなさい。
 

《五行の相(相の五行)を論ず》

一 五行の事は古(いにしえ)の相書で論じられているが、内容が繁雑で、学び難い。ゆえに、木(もく)火(か)土(ど)金(きん、ごん)水(すい)の形と意味から五行の相を定め、ここに記す。

*古の書…おそらく、「神相全編」の事だろう。実際読むとわかるが、「神相全編」はとにかく内容が細分化され過ぎていて、実用性に欠ける。「神相全編」では顔面部の区分だけでも片側120部位に分けるので、全体で240部以上にもなる。ちなみに、最近亡くなられた3代目櫻井大路先生は、常時30部位くらいに分けるのが実用的である、と指摘していた。
 
一 木形(もくぎょう)の相は、その形が伸びやかであり、腰が正しく、身体の上部が広い(木が茂る)感じがする。この相は自然と木が茂るという意味があり、木形の相と定める。
 
一 火形(かぎょう)の相は、肉付き(脂肪層)が薄く、骨が目立つ感じがする。その形は騒がしく、鋭い。この相は自然と火の道理を備えているため、火形の相と定める。
 
一 土形(どぎょう)の相は、骨が太く、節々が短く、その形は縮(ちぢ)こまったようである。自然と土の道理を備えている。これを土形の相と定める。
 
一 金形(きんぎょう)の相は、身体ががっしりしていて、その形が正しく、立ち振る舞いが勇ましい。自然と金の道理を備えている。この相を金形の相と定める。
 
一 水形(すいぎょう)の相は、口・腹・尻が大きく、形は肥えていて、水気を含んでいるようである。自然と水の道理を備えている。この相を水形の相と定める。
 
一 以上に挙げた五行の相は青赤黄白黒に対応する。だが、例えば火形の相は赤を現わすが、心の状態によっては、顔面部に青色や紫色が出現する事がある。ゆえに、五行の相はそれぞれの気色を常に用いる、という事ではない。他の事はよく考えなさい。私の浅い道理をもって、ここに示す。
 
一 天地の間(この世界)には五行のほかに、その状態を現わすのに、都合の良いものは無い。天に五行があれば、地に五行があり、人に五行がある。その中でも、人の五行が最も重要な相である。この事は詳しく調べ、論じるべきである。
 
一 木形の相の人は、物事が失敗に終わっても悔(くや)んだりする事が無い。また、運気が衰えても、再び栄える事がある。
 
一 火形の相の人は、物事に失敗しやすい。また、他人から多くのものを貪(むさぼ)ろうとする、やましい心がある。また、少しの良い事にも満足出来ない。ゆえに、喜ぶ事が少ない。物事が失敗に終わると非常に悔しがる。
 
一 土形の相の人は、人の世話をやく事が多いが、よく人を育てる。ゆえに、身を楽に暮らす事が出来ない。
 
一 金形の相の人は、物事に失敗する事があり、人を育てる事がある。また、心に寛容さがあり、才能がある。
 
一 水形の相の人は、物事を他人によく恵む。また、貴賤ともに多くの人と交流するなど、愛嬌がある。他人を傷つけたり、物事が失敗に終わっても、悔(くや)まない(クヨクヨしない)。
 
一 以上の五行の相が単体で現れるという事は少なく、いくつかの相が相混じっている事が多い。この事は深く考えなさい。
 
一 木剋土(木が土を傷つける、殺す)、土剋水、水剋火、火剋金、金剋木、これを「相剋(そうこく)」と言う。
木生火(木が火を助ける、生み出す)、火生土、土生金、金生水、水生木、これを「相生(そうしょう)」と言う。
 
一 古(いにしえ、古い)の相書(人相の本)には、「相剋は悪く、相生は良い」などと書いてあるが、五行の相というものは互いに交わり合い、影響し合って存在しているものである。つまり、影響の多少によっては、剋したあとに生じたり、生じたあとに剋す事がある。以上の事は当然の道理をもって考え、知るべきである。
 

《五行の体用を論ずる》

一 火形の相が多く、水形の相が少し混じる時は、運が強い。
 
一 土形の相が多く、水形の相が少し混じる時は、運が強い。
 
一 金形の相が多く、火形の相が少し混じる時は、運が強い。
 
一 土形の相が多く、木形の相が少し混じる時は、運が強い。
 
一 木形の相が多く、金形の相が少し混じる時は、大いに悪い。金剋木である。
 
一 金形の相が多く、木形の相が少し混じる時は、大いに悪い。金剋木である。この事は深く考え知りなさい。口伝は無い。
 
一 木形の相が多く、水形の相が少し混じる時は、運が悪い。
 
一 火形の相が多く、木形の相が少し混じる時は、運が悪い。
 
一 土形の相が多く、火形の相が少し混じる時は、運が悪い。
 
一 金形の相が多く、土形の相が少し混じる時は、運が悪い。
 
一 水形の相が多く、金形の相が少し混じる時は、運が悪い。
 
以上の五行の相は相生・相剋の道理を深く考え、生涯の運の吉凶を知るべきである。また、職業について成功するか否かも知る。五行の相は2~4つの相が混じり合っている事が多い。以上の相生・相剋の道理を用いて、深く考えなさい。また、人においても、相生が良いとか、相剋が悪いとか簡単に区別出来るものではない。なぜなら、自然界は常に相生・相剋で成り立っているからである。ゆえに、この事を考えてから色々な相を明らかにし、観るべきである。
 
一 木は金によって作用し、その位置を定める事が出来る。
 
一 火は水によって作用し、その位置を定める事が出来る。
 
一 土は木によって作用し、その位置を定める事が出来る。
 
一 金は火によって作用し、その位置を定める事が出来る。
 
一 水は土によって作用し、その位置を定める事が出来る。
 
以上の五つは、本来全て「相剋」の関係なのだが、剋(こく)したあとは必ず相生となるのが自然の道理であるゆえ、それぞれの作用を弁ずる事が出来るのである。つまり、人も良い事があれば悪い事が訪れ、悪い事があれば良い事が訪れる。このように心得て、コツコツと陰徳を積むようにすれば、悪事は自然と訪れなくなる。もし、悪事が続くならば、何故そうなるのかを自問してみなさい。他の事は深く考えて、自分で明らかにすべきである。私は愚見であるゆえ、これ以上の事はわからない。
 
南翁軒が問う
土形の相が多く、水形の相が少し混じる時は吉である、と言うのは何故でしょうか。
答える
土が多くあっても、水気が無ければ、万物が生じる事は出来ない。だが、土に水気が少し混じる時は、草木が自然と、易々(やすやす)と生じる。つまり、水気によって、土の「身体」を養う事が出来るのである。ゆえに、水形の相が作用し、土形の相を肥(こ)やすので、吉である、と言う。
 
一 水形の相が多く、土形の相が少し混じる時は、その身体の水形を土によって、濁(にご)してしまう。よって、水の身体を剋し、土も本来の作用を成す事が出来ない。ゆえに、悪い、と言う。
 
杉本四郎兵衛が問う
火形の相が多く、水形の相が少し混じる時は吉である、と言うのは何故でしょうか。
答える
火には自然と水気がある。水気が無ければ炭火のようにくすぶるのみで、盛んに燃え上がる事は出来ない。ゆえに、火は水気によって、自然とその性質を発揮する事が出来る。つまり、水の作用があるから良い、と言うのである。また、火が盛んに燃え上がる時、少しの水を与えると、その火力はさらに強まる。逆に、水形の相が多く、火形の相が少し混じる時は、水気が多過ぎるために、火を剋す。よって、水としての作用が発揮されず、少し混じるその火を絶やしてしまう。ゆえに、悪い、と言う。よく考えなさい。

*水気…ここでは水と酸素を指す。
 
尾嶌正安が問う
金形の相が多くあり、火形の相が少し混じる時は、どう観るのでしょうか。
答える
金は火に温められる事で、自然と水を生じる。つまり、火によって金が作用し、水が生まれる。ゆえに、吉である、と言う。また、火形の相が多く、金形の相が少し混じる時は、火の火力が強過ぎるようなもので、少し混じる金を剋してしまう。火の作用が良いといっても、これでは、金を絶やしてしまうゆえ、悪い、と言う。
 
杉本北山が問う
土形の相が多く、木形の相が少し混じるのは吉である、と言うのは何故でしょうか。
答える
木は土があればこそ栄える事が出来る。木が栄える時は、その土の勢力(養分)が木に吸い取られるのだが、木は水気を呼び、大いに土を潤す事が出来る。ゆえに、土の作用により、木の身体は自然と満ちるので、吉である、と言う。逆に、木形の相が多く、土形の相が少し混じる時は、木を養う土の量が足らなくなるので、木は自然と衰える。つまり、土が充分に作用せず、木の身体を絶やすのである。ゆえに、悪い、と言う。
*ここでの水気は二酸化炭素。つまり、木は二酸化炭素を吸い、酸素を排出する。良い土壌に酸素は不可欠である。
 
豊田東馬が問う
火形の相が多く、木形の相が少し混じる時は悪い、と言うのは何故でしょうか。
答える
火は木によって栄える事が出来る。その木が少なければ、自然に火の身体は亡(ほろ)びる。ゆえに、木の作用があるといっても、火の身体は自然に絶えてしまうので、悪い、と言う。逆に、木形の相が多く、火形の相が少し混じる時は、火の栄養である木が多いので、火は自然と栄える。つまり、木が充分に作用し、火の身体が自然と満ちるゆえ、良い、と言う。
 
折原左門が問う
土形の相が多く、火形の相が少し混じる時は悪い、と言うのは何故でしょうか。
答える
土は火から生ずる。だが、火が少なければ、土は満ちる事が出来ない。ゆえに、火の作用が発揮されず、土は満ちないので悪い、と言う。逆に、火形の相が多くあり、土形の相が少し混じる時は、火が多いゆえに、土は自然と満たされる。よって、良い、と言う。
 
長尾新吾が問う
金形の相が多くあり、土形の相が少し混じる時は悪い、と言うのは何故でしょうか。
答える
金は土から生ずる。ゆえに、土が豊かで無いと、金が満ちる事が出来ない。つまり、土の作用が発揮されず、金の身体が満ちないので悪い、と言う。逆に、土形の相が多く、金形の相が少し混じる時は、土が多いので、自然と金の身体が満ちる。つまり、土の作用が発揮され、金の身体が満ちるのである。ゆえに、良い、と言う。
*金…全ての鉱物と考えるとわかりやすい。
 
松下主人が問う
水形の相が多くあり、金形の相が少し混じる時は悪い、と言うのは何故でしょうか。
答える
水は金から生ずる。金が少なければ、水が生じ難い。つまり、金の作用が発揮されず、水の身体が満たされないので悪い、と言うのである。逆に、金形の相が多く、水形の相が少し混じる時は、金が多いので、自然と水は生まれやすい。つまり、金の作用が発揮され、水の身体が満ちるゆえに良い、と言う。
 
泰政二郎が問う
木形の相が多くあり、水形の相が少し混じる時は悪い、と言うのは何故でしょうか。
答える
木は水によって生じる。水が少なければ、木は栄え難い。ゆえに、水の作用が発揮されず、木の身体が満たされる事もないので悪い、と言う。逆に、水形の相が多く、木形の相が少し混じる時は、木を養う水が多いので、自然と木は栄える。ゆえに、水の作用が発揮され、木の身体が自然と満たされるので、良い、と言う。
 
高橋栗八が問う
木形の相が多くあり、金形の相が少し混じる時は悪い、と言うのは何故でしょうか。
答える
木形の相が多くあっても、金形の相が少ししか混じらない時は、その木の身体を自然と剋す。例えるならば、三寸の金(きん)鉞(えつ)により、伸び過ぎた木を絶やすに等しい。金の作用は小さいようだが、いつかは、その本体である木を絶やしてしまう。つまり、金剋木となるので、大いに悪い。だが、木を剋した後は、相生となるという事を考慮に入れ、知るべきである。また、金形の相が多くあり、木形の相が少し混じる時でも、その身体に混じる木を絶やしてしまう。つまり、金の作用が発揮されず、木の身体も絶やしてしまうので、悪い、と言う。例えば、金の気が多く存在する山は草木がほとんど生じず、ましてや大木が育つ事などありえない。ゆえに、金剋木で大いに悪い。この事は深く考えて、知るべきである。

*金鉞…鉞(えつ)は「まさかり」とも読み、主に木を切るための大型の斧。黄金製の大まさかりは金鉞と呼び、大将軍のしるしとして、武具として用いた。ここで言う「三寸の金鉞」など、実際は存在しない。つまり、三寸だと約10㎝であり、手のひらよりも小さい鉞という事になる。そんな大きさで、通常、木の幹を切るのは困難である。だが、そんな小さな斧でも、長い時間をかければ、木を切る事が出来る、という例え話として用いている。後半の文章では、木より金の総量が多いという話なので、当然ながら、木は存在する余地すらない。ちなみに、金とは鉱物全般を指し、ここで言う金の気が多く存在する山というのは、いわゆる金山や銀山など、鉱物を多く産出する山の事である。
*ここで述べている内容は、少し難解である。五行の相生・相剋をしっかり把握していないと、わかりにくいかもしれない。つまり、金が生まれ、活かされる大元は木であり、木で火が生じ、火から土が生まれ、土から金が生まれる、という具合である。また、木は土を相生、つまり活(い)かすので、木が健全であれば、自ずと土の「子」である金が養われる、という意味にもとれる。
 
小西久兵衛が問う
木形の相が五割、水形の相が五割、それぞれ等分に混じる時は、これを親子の相生と言って大いに良い、と言うのは何故でしょうか。
答える
木と水が等分に混じる時は、水が木を生ずるという、親子の相生関係が起こる。ゆえに、水はその作用を発揮し、木はその身体を満たすので、大いに良い。
 
高橋道一が問う
火形の相が五割、土形の相が五割、それぞれ等分に混じる時は、これを親子の相生とし、大いに良い、と言うのは何故でしょうか。
答える
火は土を生ずるので、これを親子の相生と言う。つまり、火はその作用を発揮し、土はその身体を満たすゆえ、吉であると言う。
 
伊藤道右衛門が問う
土形の相が五割、金形の相が五割、等分に混じる時はこれを親子の相生とし、非常に良い、と言うのは何故でしょうか。
答える
土は親であり、金を生ずる。ゆえに、親子の相生と言う。つまり、土の作用を発揮し、金の身体を満たすので親子の相生と言い、非常に良い。
 
松下新平が問う
金形の相が五割、水形の相が五割、等分に混じる時はこれを親子の相生とし、非常に良い、と言うのは何故でしょうか。
答える
金は親であり、水を生ずる。ゆえに親子の相生と言う。つまり、金の作用を発揮し、水の身体を満たすので親子の相生と言い、非常に良い。
 
小林金蔵が問う
火形の相が五割、木形の相が五割、等分に混じる時はこれを親子の相生とし、非常に良い、と言うのは何故でしょうか。
答える
木は親であり、火を生ずる。ゆえに、親子の相生と言う。つまり、木の作用を発揮し、火の身体を満たすので親子の相生と言い、非常に良い。
 
相剋する時は、以上の道理に応じる。例えば、金形の相が五割、火形の相が五割、等分に混じる時はこれを真の相剋と言い、非常に悪い。火が作用しないので、金の身体は自然に衰え、非常に悪い。他の事は深く考えなさい。五行の相生、相剋については、他の相書に伝わる内容とは異なる内容を示した。これは私独自の見解である。
 
一 五行の相が混在しておらず、真の五行の相がある者は非常に良い。例えば、真の木形の相がある時は、これを真の相生と言い、非常に良い。つまり、これは真の木形の相であり、木は自然と火を生じ、木生火と相生するからである。

*真の五行の相…つまり、五行のうち、いずれかの相が1つだけしかない場合は、「格に入る」と言って、非常に良い。八相、八面の観方でも同様である。
 
一 真の火形の相がある者は、これを真の相生とし、非常に良い。火から土を生ずるので、火生土となる。ゆえに、これを真の相生と言う。
 
一 真の土形の相がある者は、これを真の相生とし、非常に良い。土から金を生ずるので、土生金となる。ゆえに、これを真の相生と言う。
 
一 真の金形の相がある者は、これを真の相生とし、非常に良い。金から水を生ずるので、金生水となる。ゆえに、これを真の相生と言う。
 
一 真の水形の相がある者は、これを真の相生とし、非常に良い。水から木を生ずるので、水生木となる。ゆえに、これを真の相生と言う。
以上の相生五行については、深く考えて用いなさい。口伝は無い。
 
中新井竜成が問う
剣難、火難、災難などの凶事、吉事が来るか否かは、骨格によって観る事が出来るのでしょうか。
答える
骨格では無く、血色で判断しなさい。
 
また問う
私は未熟であり、血色の判断が出来ません。血色以外の方法で、その相を観抜く事は出来ませんか。
答える
血色が観えないならば、神気を観ると良い。例えば、剣難が近い相は、驚いたような雰囲気が強くある。また、何となくがっかりしてしまうような気持ちが、相者の心に自然と浮かんでくる。このような人は必ず剣難がある。この事は十分に考え、妙技に至るべきである。
*剣難…本来は、刃物などで殺傷される災難の事を指すが、現代においては、交通事故や暴行事件、その他の突発的な事故・事件を含めて考える。
 
一 災難が来る相は、相対すると、何となく眼神が定まらず、空全体が曇って大荒れになりそうな感じが、自然と相者の心に浮かぶ。この人には、必ず災難がある。詳しい事は、実践を積み、その妙技を得なさい。
 
一 火難の相は、相対すると、雰囲気が騒がしいようで、眼が定まっておらず、座っても落ち着きが無く、イライラするような感じがあり、驚いたような状態がある。この人には、必ず火難がある。
 
一 吉事が来る相は、相対すると、清々(すがすが)しい感じがして、何となく賑(にぎ)やかな感じもあるのだが、顔を観てもそれらしき相は確認出来ない。とにかく、相者の心に「吉事が来そうだ」という思いが浮かぶのである。この人には、必ず吉事がある。以上の事はよく考え、よく観相しなさい。口伝は無い。
 

《八相を論ず》

一 悪相の者は、相対すると、何となく相者の心に鋭い感覚が浮かぶ。また、何故か荒々しく心が打たれる感じがする。だが、相者には、見下すような感じが強くあるように思える。この人は必ず悪相である。
 
一 貴相(貴人の相)の者は、相対すると、相者の心に崇高な神仏の社殿に入るような感じが浮かぶ。この人は必ず貴相である。
 
一 威相(威厳のある相)の者は、相対すると、一般庶民が時の領主(国主大名)や奉行(武家の職名)の前に平伏すような感じがして、ただ何となく恐れ入る(恐縮する)感じが、自然と心に浮かぶ。この人は必ず威相である。
 
一 貧相の者は、相対すると、何となくもの淋しい感じがして、日陰で遅れて咲く、花の葉が枯れるようでもある。この人は必ず貧相である。
 
一 福相の者は、相対すると、その姿形が暖かな感じがして、時正の山野を楽しむような感じがある。また、気を使わなくてもいいような感覚もあり、相者の心が自然と豊かになるようでもある。この人は必ず福相であるが、このことはよく考えなければならない。

*時正(じしょう):春と秋の彼岸の中日。または彼岸の7日間のこと。つまり、二十四節気である春分(3月21日頃)、秋分(9月23日頃)にあたる。
 
一 夭相(短命の相)の者は、相対すると、何となくその姿形に、花の萎(しお)れるような感じが心に浮かぶ。また、たとえ相に勢いがあったとしても、燈(とう)の油が無くなってきて、火が消え入るような感じがある。この人は必ず夭相である。

*燈(とう):灯台のこと。江戸時代に使われていた室内照明器具のひとつで、支柱の上に油皿をのせ、灯心を立て、点火する台のこと。灯明台ともいう。
 
一 孤独の相の者は、相対すると、その姿形が淋しく、鶏が雨に打たれるような感じがする。また、相者の心に頼りない感じや老後を心配してしまうような感じが浮かんでくる。
 
一 寿相(長寿の相)の者は、相対すると、自然に相者の心が豊かで安らかになる。また、その姿形は健やかで、物事に動じない感じがして、例えば、自分が小舟に乗っていて、眼前を大船がゆくように思える。この人は必ず寿相である。
 
一 八相の事は各々、相者の見識によって考えなければならない。また、八相には真の(純粋な)八相は少なく、いくつかの相が入り混じっていることが多い。さらに、相者に徳があるか、徳が無いかによって、貴人を賤人と相することがあり、逆に賤人であっても貴人と相してしまうことがある。故に、相者はまず己れ(自分)を相して、後に他人を相することが最も重要なのである。このことはよく考えねばならない。

*南北相法には記載がないが、八相には必ず陰陽があるので、それを観抜くことも重要である。簡単に言えば陰相は「嫌な感じ、暗い感じ、冷たい感じ、濁った感じ」などであり、陽相は「明るい感じ、温かみがある感じ、スッキリした感じ」などである。例えば、威相で陽相ならば、誠実で、相に濁りがなく、声もスッキリしているが、陰相ならば、腹黒く、強引で、眼が据わり、声に濁りがあり、街中でも平気で大声を出す、というような具合である。
 

《国風(地相と人相の関係)を論ず》

一 国風を観る事は、相者にとって珍しい事では無い。例えば、その土地柄で、草木金石が違うように、人もまた同様である。ゆえに、土地の道理を知ってから人を相する事が、相者にとって重要な事なのである。今、ここに概要を示す。詳しい事は自分で考え、知りなさい。

*国風…その国や地方独特の風俗(装い)、習慣などの事。
 
一 まず、大国(たいこく)は、自然とその風俗が豊かである。ゆえに、大国の人は全身が豊かで、大きい。だが、元気(腎氣)の厚薄によって大小の違いはある。また、大国はその国に応じて人氣(じんき)も自ずから豊かである。しかし、その国は豊かであるために、世事に疎(うと)い。つまり、全身が大きい者は自然と才が薄く、世事に疎(うと)い。逆に、全身が大きいのに才がある者は「智・仁・勇」の三徳が備わっている人である。

*人氣…その地方の気風。
*世事…世間の様々な俗事。世俗の事柄。
*才…生まれつき備えている能力。ここでは教養の事を指す。
 
一 小国は狭いがゆえに、全身が小さく、人氣が豊かでない。つまり、世事に賢く、自然と才がある。
 
一 繁華街に住む者は、人に多く交流するので世事に賢い。また、繁華街に住まずとも、人に多く交流する者は自然と才がある。
 
一 陽国は自然と人氣が盛んである。逆に、陰国は人氣が陰に入ってしまい、衰えている。また、陽国に住む人は、額に太陽が照りつけているようであるが、陰国に住む人は下停(鼻先から顎)が自然と暗い。

*陽国と陰国…日本での話なので、陽国は太平洋側、陰国は日本海側と考えるとわかりやすい。つまり、日照時間が長い国が陽国であり、短い国は陰国である、とも理解出来る。または赤道、南極に近い国が陽国、赤道から遠く、北極に近い国を陰国、と考える事も可能である。風水的観点から言えば、南に海を抱く地形は「四神相応」の一条件であり、ゆえに、日本においては、太平洋側が栄え、日本海側は廃れる傾向にある事実が理解出来よう。実際、政令指定都市(人口50万人以上の市)の95%以上(それ以上か?)は太平洋側にあるし、首都東京はその典型である。ちなみに東京は徳川家康の治世に、南光坊天海によって作られた最強の風水都市であると言われている。これについての詳しい明言は避けるが、栄える土地も、人も、それなりの理由があると言う事を、しっかりと考えねばならない。それを無くして、首都移転論を持ち出す事は、日本の国運等について無配慮であり、非常に危険である、と言えるかもしれない。首都は国家の中枢であり、なぜ今、首都が東京にあるのか、なぜ栄えているのかをしっかりと検証してからでないと、移転は危険である。ちなみに都内にある2つの某電波塔は東京の結界を切り裂くために建てられたと言う説がある。
 
一 水気が多くある所に住む者は、下停がぼやけている(水の中に浸かっているようである)。また、陽地に住んでいても、水気の病がある者は、下停が自然と暗い。詳しい事は血色の書に記すので、参照されたい。また、陰の高山に住む者も、自然と下停が暗い。

*水気の病…泌尿器系、生殖器系の疾患を指すのであろうが、主としては腎臓の疾患を指すと思われる。
 
一 日が多く照り渡る場所に住む者は、その相行(そうぎょう)に自然と陽氣がある。
 
一 北側に住む者はその相形(そうぎょう)に自然と陰氣がある。

*原文では「相行」と「相形」が混在している。「行」も「形」も、共に「相」の一部であり、ここでは使い分けているのか、それとも単なる誤字なのか、当て字なのかは、今のところ不明である。解り次第、追記する。
 
一 路地に挟まれた家に住む者は、自然とその相形に陰氣がある。
 
一 川は東から西に流れるのを順とする。ゆえに、この川沿いに住む者は、その心が自然と素直である。繁華街は考慮に入れない。

*順…素直である、という事。ここでは、太陽や月が巡る黄道帯の流れに沿う状態を「順」とし、それらに反する状態を「逆」としていると思われる。
*ここからの川の話は、方角の五行と陰陽を理解していないとわかりにくいかもしれない。火は陽極(陽中の陽)で南、水は陰極(陰中の陰)で北を表わす。また、木、金、土は陰陽混合の状態であり、木は陽中の陰で東、金は陰中の陽で西、土は万物の中心ですべての状態を含む陰陽半々で中央を表わす。さらに、木気は生気、火気は旺気、金気は老気、水気は死気とする(土気について書いた文献を未だ知らぬが、土は「休気」とするのが適当かと思う)。何度も言うが、南北相法を含め、人相術を理解するためには陰陽、五行について熟知しておく事が不可欠である。
 
一 川が西から東へ流れる時は順では無い。太陽の道に逆らって流れている。また、西は金気が集まる場所であり、金気を含んだ水は木を剋す(枯らす)のが道理である。ゆえに、この川沿いに住む者は、必ず偏屈であり、心が激しく、殺伐とした気を持っている。この事は深く考えなさい。

*偏屈…心が素直でなく、ねじけており、柔軟性が無い状態。
*殺伐…人を殺傷する事を何とも思っていない状態。いわゆる、キレやすい状態。
 
一 川が南から北に流れる時は、陰である水が、陰に落ちるに等しい。ゆえに、この地は陰地であり、人氣が陰気で、自然と心が素直である。また、北国では多くの川が北へ流れている。つまり、北は陰国であるので、人氣が自然と素直なのである。
 
一 川が北から南に流れる時は、陰である水が、陽に納まるという道理に正しい。ゆえに、この川沿いは陽地であり、人氣(じんき)も陽であり、自然と賑やかである。逆に、南国では多くの川が南へ流れているが、水が南へ流れる時は陰気を多く含むゆえ、南の火を剋してしまう。つまり、この川沿いに住む者は殺伐の気を持つ。他の事は深く考えなさい。
一 諸国離島に住む者は、何となく不安定な相がある。また、平地より高く、川がある場所に住む者も同様である。
 
一 江戸は広く開けており、諸候(しょこう)が多く交流する場所である。ゆえに、諸候の気に応じて、人氣(じんき)が自然と大きく、「武」の趣(おもむき)がある。

*諸候…諸大名。特に、南北翁が生きた江戸期では、将軍直臣で、領地一万石以上の大名(武士)を諸候と呼んだ。また、当時は、約270家の大名が江戸に出入りしていたという。
 
一 京都は王城の地であり、貴(とうと)い場所である。ゆえに、京都に住む人の雰囲気は柔らかで、控えめである。また、四方に山が高くそびえ、地形は鋭くみえるが、まさに四神相応の地であり、「都」と呼ぶべき場所である。

*四神相応の地…風水用語。北に玄武(亀の甲羅のように、ドッシリと小高い山)、南に朱雀(鳥が羽を広げたような開けた空間、池や広場)、西に白虎(虎が千里を行くような、勢いのある大路)、東に青龍(龍のように長く、たくましくうねる清流、山脈、大路)が守護する土地の事。それらに対応する、神獣の形を連想させるものに四方位を囲まれている土地ほど良い。風水の入門書としては、『必携風水学(デレク・ウォルターズ著:角川文庫ソフィア)』、『風水先生(荒俣宏著:集英社)』をお薦めする。人相術、手相術などと同様に、風水術についての本も良書は少ないので、騙されぬように注意されたし。
*都…「みや」は「宮(神のいる御殿、神社、仏閣)」、「こ」は「処(場所)」で、本来、神のいる場所を「みやこ」と呼んだ。当時は、都と言えば、京都の事を指した。
 
一 大坂には川が多く流れ、水が止まることなく、さわやかに流れている。ゆえに、その水に応じて、大坂人は人氣(じんき)が潔(いさぎよ)く、心が広い。また、水は貴賤ともに分け隔(へだ)てなく使用されるものであるので、大坂の人々は交流が活発で、親しみがある。
*大坂…現在は「大阪」。
 
一 東国は言葉が重々しい(濁音が多い)。
 
一 西国は言葉が軽やかである(清音が多い)。
 
一 北国は言葉が陰気でわかりにくい。
 
一 南国は言葉が陽気で激しい。
 
一 五幾内は言葉が正直であるが、場所によって異なる。よく考えなさい。
 
一 一つの国を治める領主の心が安定しない時は、その国も自然と栄える事がない。
 
一 一つの国を治める領主が、五常の徳を正しく守り、民衆の立場になってものを考えるならば、その国は必ず陽地となり、自然と栄える。これを生地とも言う。逆に、良い相を備えていても、死地に住む人はその地の影響を受けて、自然と栄える事が無い。住む土地の事はしっかりと考えた方が良い。

*五常…仁、義、礼、智、信の五つ。
 
一 死地に住んでいても、その心を正しく持ち真面目に働く者は、必ず栄える。
 
一 生地に住んでいて良い相を備えていても、心が浮ついていて、真面目に働かぬ者は、必ず没落する。
 
一 たとえ、生陽の地(大吉相の地)を求め、そこに住んだとしても、その家主の心が浮ついていたり、真面目に生きていないならば、家相が良くとも人相が良くとも、必ず没落する。
 
一 死地に家を求め、そこに住んだとしても、その家主が信念を強く持ち真面目に生きるならば、家相が悪くとも人相が悪くとも、大いに発展する。つまり、相は自分の心の中にあるのであり、自分の心を知る事が出来れば、もはや、そこに相は存在しない。この事は深く、深く考え、知るべきである。

一 水気が薄い山には本来、草木が生えないものである。その山に自然と水気が帯び、草木が生え茂る時は、必ず二、三年の内にその山に大きな変動が起こる。ゆえに、その地に住む者は移住すべきである。乾燥していた山に水気が帯びる時は、その山の草木は青々と茂り、一見すると、山に水気があふれるように思える。だが、その山の勢いは水を抜かれた生け花のように、山の気は秋日の夕暮に染まる西山のように、衰え傾いてゆく。この事はよく考えなさい。他の事は血色の書に詳しく記す。自ら求めて、知るべきである。
 

《相の真意を説く》

一 現在、相書には『麻衣相法』や『陳搏相法』、『柳庄相法』などがある。その他にも数篇の相書があり、すでに相法の要点を表現し尽くしている。だが本来、相法には、相書によらぬ「天の相法」というものが存在する。私がここに記している相法は私独自の相法ではなく、「天の相法」であり、「無相の相法」と言う。

*麻衣…麻衣道士。中国五名山の一つで、中国陜西省華陰市に実在する華山(西岳)にいたとされる仙人。華山石室(華山は花崗岩を主体とする山なので、石室で修行する僧が沢山いた)で陳希夷(搏圖南)に人相術を教えたとされる人物である。常に麻の衣を身につけていた事から、「麻衣」と呼ばれたと言う。
*『柳庄相法』…原文では『柳荘相法』と記してあるが、誤字と思われる。
*『麻衣相法』…正しくは『麻衣相法全編』と呼ばれ、麻衣の作であるとされるが、詳細は不明である(解り次第追記する)。宋代以後に記された『柳庄相法』、『相法全編』、『水鏡集』、『相理衡真』などに多大な影響を与えたとされる。
*『陳搏相法』…『神異賦(しんいふ)』のことであると思われる(これも詳細が解り次第追記する)。
*『神相全編』…中国古代から存在する、各時代の相書を寄せ集め、編集した書だと思われる。宋代に生きた陳希夷の秘伝とされるが、実際は怪しい。なぜなら、陳希夷が記した『神異賦』とは大きく内容が異なるからである。おそらく、『黄帝内経』のように、後世の人々が古書から得た知識や経験を集大成したものではないかと思う。明代には袁忠徹が訂正し、新たに出版している。清代以降は、相書の分野では最もヒットした。日本でも、初代櫻井大路(たいろ)が完訳し、大ヒットした。明治期から昭和初期にかけての相書は、ほとんど『神相全編』をツマミ食いしたようなモノが多い。現代では、さらにそれらをパクったような内容の本が多く出版されている。酷いものである。個々人が、各々、しっかりと、古典を紐解いていないのである。ちなみに、この徴候は初代櫻井大路が生きた昭和初期にもみられていたらしく、氏はこの現状を憂い、『人相の科学(清教社)』で、以下のように述べている。「…だんだんと普通の人が研究する所となり、一般に拡がったのは良いが、だいぶ日本が俗化しただけ、反って下手となったのである。そのわけは真の学者の研究でなく、俗人が相は占卜と心得たゆえに、自然研究の土台を誤り、科学的なものが占卜的となり、徒に想像の意志が介在したゆえ、真の発達の見込みはさらになく、殊に学者と言われる者は、その真価を知らずして反ってこれを賤しめたから、これに従事する者なく、ただ坊間の士のみ占卜と混合して相したゆえ、つまらぬ学問と、社会の人々が思ったのも、当然のことであろう。(中略)ゆえに、この道を学ばんと欲する者は、まず支那相法より始められよ。…」
*陳搏…陳希夷(搏圖南)。唐から宋の時代に実在したとされる道教学者で、直々に麻衣の教えを受けた、中国における人相術中興の祖でもある。字(あざな)を圖南(となん)、号を扶揺子(ふようし)とし、後年、太宗から希夷(きい)の号を賜る。ちなみに、「希夷」は老子の言葉である「視て見えざる、これを夷と言い、聴いて聞こえざる、これを希と言う(視之不見、名曰夷。聽之不聞、名曰希。)」による。現在では、陳搏老祖、睡仙とも呼ばれる。相書の原点である『神異賦』を残している。
 
一 そもそも相というものは意(い)臣(しん)君(くん)神(しん)によって観るものである。しかし学者の多くは意臣を君神であると考え、相を論じている。ゆえに必ず齟齬(そご)し、人の運命に悪影響を与える。そのような時は勧善懲悪の道を実現させる事は出来ない。学者の多くは相法を「秘事」あるいは「秘術」であると言っているが、秘密にするほどの「術」を会得しているのであろうか。本来相法は隠すものではなく、顕(あきら)かにすべきものである。ましてや相法は仁術であり、どうして秘術として隠す事など出来ようか。何よりも相法の奥儀は有るにあらず、無きにあらず、大にあらず、小にあらず、天にあらず、地にあらず、我にあらず、人(≒他人)にあらず、ましてや広大な天地(てんち)六合(りくごう)の内にもあらず。空空(くうくう)寂寂(じゃくじゃく)たる刹那(せつな)の境地には、敬うべき一人の老人がいる。その老人には鼻も無く、眼も無く、影も無く、形も無い。その名を無意相と言う。真に相法を学ぼうとするならば、この老人をとらえ、相法の師として、相法の妙々たる奥深さを知りなさい。この師をとらえなければ、相を明らかにする事は出来ない。未だにこの師を得ていない相者は相法の賊である。もし、無意相先生に近寄りたいと思うならば、尊い出家者や博学な人に先生がいる場所を問いなさい。だが、先生のいる場所に至るまでの道筋を教わったとしても、行く時は自分独りである。その先生のいる城郭のほとりには、八万四千の魔王がいる。その魔王にはそれぞれ名がある。魔王は求道者が城郭に入ることを憂い、悲しみ、色々と防ごうとしてくるであろう。だがその時、持参した刃も無く形も無い利剱(りけん)によって、その八万四千の魔王をことごとく斬り払い、先生のいる城郭に勇み入り、相法の妙奥を開き、そして問いなさい。そうすれば、人を観相しても不思議と相が明らかになるであろう。それはまさに「麻中(まちゅう)に矢を放つが如し」である。
*南北相法中で最も重要な文章である。
*原文は文章の前後関係などが解りにくかったので、解り易いように訳した。
*勧善懲悪…善を勧(すす)め、悪を懲(こ)らしめる事。
*仁術…儒教の教えから出た言葉。「仁」は儒教における五常の一つ。「仁」とは他者をおもいやり、愛を注ぐ事である。また、「仁」とは「人」に通じ、仁術は人道に通ずる。仁術は人が守るべき道である。
*天地六合…六合には「六極」の意味があり、東西南北の四つの方位に、上下を加えた三次元的な世界、つまり、我々人間が生きるこの世界の事を示す。「天地六合=全世界(全宇宙)」と考えると解りやすい。
*空空寂寂…仏教用語。空寂を強調した言葉。いわゆる、無我の境地、悟りの境地、絶対自由の境地、囚われのない心、無の状態、涅槃(ねはん)などを指す。サンスクリット語ではnirvanaの意に近い。
*「空空寂寂たる刹那の境地」…原文は「空空寂寂たる一気の邊(ほと、あた)り」である。「一気」は「ひといき」の意であり、ゴロの良さも考え、「刹那」と訳した。また、「邊」の意味は、いわば此岸と彼岸の境界であり、自我と他我の境界でもある。ゆえに、「空空寂寂」の文脈により、「境地」と訳した。ちなみに、「臱(べん)」は「鼻の両わき」を意味するが、人相術では鼻は自我、頬は他我の象徴である。つまり、「臱」自体に「境界」に意がある。「辵(ちゃく)」は「歩く」の意である。『南北相法』に関しては、市販の訳本、ネットに流れてる訳文には、現状ではまともなものが全く無いので、避けた方が良い。本当に学ぼうとするならば、原典、原文に、自力であたるべきである。
*賊(ぞく)…悪者。社会の秩序を乱す者。ここではインチキ人相観、インチキ易者、インチキ占い師などを指す。
*利剱…「利」とは「鋭い」の意であるが、「智慧(ちえ)」の意もあり、ここでは掛詞にしていると思われる。つまり、本来の意味である「鋭い剣(つるぎ)」と、仏教用語で、煩悩や魔を打ち破る「降魔(ごうま)の剣」の意味が含まれているのである。どちらかと言えば、この文脈では、「利剱=仏の智慧」と考えるのが的確である。ちなみに、「降魔の利剣」は不動明王が持つ剣の事。
*麻中…麻糸がもつれた状態。混沌、と考えると解りやすい。
 

南北相法巻ノ三 終

 

 Copyright © 2015 Tokyo Tsubame Shinkyu. All rights reserved.