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新聞屋にとって、1年で最も団結力が高まるのは、元旦までの1週間だった。元旦の新聞は1年の始まりということもあり、毎年、新聞社の威信をかけた豪華版となるのが通例だった。それゆえ、所長や店長からは、不吉であるから元旦だけは不着、誤配をしてくれるなと、耳が痛くなるほど聞かされていた。

通常、新聞は月曜日が最も薄く、週末に近づくほど厚くなる。それでも、紙面のページ数は30ページほど、チラシは多くても20枚ほどだった。しかし、元旦は紙面もチラシもその数倍の量に跳ね上がるから、1週間前からパートのおばちゃんたちが、顧客から持ち込まれた各種チラシを機械でバラして組み直し、1セットずつに仕上げた分を、販売店の隅に積み上げてゆくのだった。

このチラシをただでさえ分厚い元旦の新聞に挟み込むと、週刊誌以上の厚さになり、ポストに投函できなくなる。したがって我々配達員は、「賀正」と印字された取っ手付きの専用のビニール袋に、新聞とチラシを1部ずつ入れて配達することになるわけだが、ポストには入りきらない巨大さゆえ、1週間前から、ポスト以外の置き場所を調査したり、平時よりも転送場所を増やして、どこに何部くらい転送すれば効率的に配達できるかを事前に相談し合うことになっていた。

元旦の配達はとにかく大変だった。しかし、大半の顧客は新聞がいつもよりも遅れて届くことを承知していたから、精神的には楽だった。

通常、朝刊の配達は深夜2時頃に開始して、朝6時前には終わるのだが、元旦の新聞は平時の10倍くらいの厚みがあったため、約400部を全て配り終わる頃には、8時をとうに回っていた。

配達が終わって販売店に戻ると、ニコニコしながら待っていた所長が、「はい、お疲れさま」と言って、5000円が入ったポチ袋を1人1人に手渡し、所長の奥さんが作ってくれたおせちらしからぬ、おせちらしき料理を食べるのが恒例になっていた。何故か、カレーは、元旦のテッパンメニューだった。

当時、新聞屋に集まる人々は、その多くが社会からはみ出したり、恵まれない生活環境で育ってきたような、独身男ばかりだった。

それゆえ、所長の奥さんがふるまう凡庸な手料理であっても、とても温かみが感じられ、元旦の販売店の中は、いつものピリピリ感が皆無な、和やかな空間に変化するのだった。

1年で最も大変な朝刊配達を、全員で協力して無事終えることができた安堵感や、1年で唯一の完全なる新聞休刊日を翌日に控えた嬉しさなどから、みな独特の和やかさを醸し出していて、毎日お世話になっているコンビニ弁当には目もくれず、大そう幸せそうに、おせち料理をほおばるのだった。

所長が箱買いしてきた缶ビールや缶ジュースは飲み放題だったから、食後、ジャンバーのポケットに缶を何本も詰め込んで、そそくさと帰る配達員も数人存在した。