鍼灸が生み出された古代中国では、鍼灸は外科的、中薬(漢方)は内科的役割をそれぞれ担っており、共に不可分の存在であった。その歴史は3000年とも4000年とも言われているが、悠久の臨床現場における試行錯誤の結果、後世への教訓、叡智として、様々な中医経典が記され、脈々と伝承されてきた。
また中国では、近代に至り、西洋医学が流入すると、鍼灸は中薬と共に科学化が推し進められた。実際、現在の中国では、中国伝統医学と西洋医学が融合し、古法が守られつつも、多くの医師や研究者の下で、鍼灸は日々進化し続けている。いわゆる、中国語で言う「中西医结合」である。ちなみに当院では中国語を介して最新の鍼灸術を本場中国から随時学び、日々臨床に活かしている。
一方、日本鍼灸は、江戸期に視覚障害者であった杉山和一が徳川綱吉の加護を受けて一大流派を興し、その後の日本鍼灸の技術体系に大きな影響を与え、昭和期のはりきゅう免許取得の規制緩和に至るまで、職業的な不均衡を生み出したという、世界的にみると極めて特異な成り立ちがある。そのため、江戸期以降、鍼灸按摩術が次第に職業上、特権的傾向を帯びてくると、本来鍼灸が備えていた外科的役割が減少し、鍼管を用いた、浅く軽く刺すような刺鍼法が増加したと考えられる。
当然ながら、術者の視覚が制限されていれば、目に見えぬ世界や視覚以外の感覚が重視され、手技も道具も簡便性が求められるようになる。さらに、近代に至ると、西洋医学の影響で、日本鍼灸も科学化が求められたが、陰陽知熱感度法や、霊熱透射療法など、エビデンスとは程遠い療術が一部術者から根強く支持されていたようだ。現代に至っても、一部の鍼灸院では鍼灸術以外に、読経や、占い、退行催眠、心霊療法などが密かに併用されている。
結果的に、日本鍼灸は、明確な論拠と有効性、再現性を求める西洋医学と融合すること能わず、単なる代替医療に成り下がってしまった。 しかしながら、中国から伝わった「中薬」は、中国同様に「漢方」として科学化が進み、鍼灸とは分離した形で通常医療として西洋医学に取り込まれ、現代医学と融合するに至った。
結局、本来不可分の存在として伝承されてきた鍼灸術と中薬(漢方)術は、西洋医学が本格流入した近代において、日本ではその命運が決定的に分けられてしまったのである。
つまり、日本では中薬(漢方)が日の目を見た一方で、鍼灸は次第にアングラ的傾向を帯び、医療業界において、歪な存在として、自らを地下世界へ追いやることになった。実際、現在でも一部の鍼灸師は西洋医学の限界を嘯き、医師を目の敵とし、権威を妬み、鍼灸の科学化を疎かにして、患者を治すことを放棄し、金や欲に目が眩み、反権威主義的思想に染まり、スピリチュアルな雰囲気に自己陶酔しつつ、白衣を投げ捨て、奇妙な装束を纏い、徒党を組んでカルト化するなど、鍼灸院がもはや怪しげな存在としてブラックボックス化しているのは周知の通りである。