日本では古来より、鍼灸事故に関する文献が少なく、事故に関する情報が的確に共有されていないため、現在においても類似事故が繰り返されている。中国の某文献によると、世界的にみて、鍼灸事故で最も多いのはいわゆる暈鍼で、刺鍼中や施灸中、刺鍼後にみられるめまいや脳貧血、頭痛、吐き気、卒倒などが主な症状である。重症で最も多いのは誤刺による気胸で、実際、私の周囲の鍼灸師にヒアリングしただけでも、過去に気胸を起こしてしまったことがある、と密かに自白する鍼師が少なくない。

 

私が鍼灸学生だった2008年頃に採用されていた教科書の1つである、「はりきゅう理論」には、「リスク管理」という項目が10ページほど設けられていたものの、中国の医学部で使われていた教科書と見比べると、鍼灸事故や鍼の禁忌について、ほんの僅かしか記されておらず、過去の事故や最新の臨床現場からフィードバックされた実践的内容は皆無だった。そのため、中国の医師に比べ、日本の鍼灸師は先人が起こした事故から学ぶ機会が少なく、免許取得後も刺灸事故に関する知識レベルが低いままで、同様の事故を繰り返してしまっているのであろうと推察される。

 

鍼の本場中国では、古来から医師が鍼灸を業としており、すでに1960年頃から鍼灸事故についての研究が進められている。実際、中国では過去の事故についてまとめた研究書や、穴位の安全深度と危険深度を細かく研究した解剖書などが多数出版されている。日本では未だ普及していない穴位ごとの断層解剖書なども、中国では当たり前のように最新刊が出版され続けている。

 

中国では、上海中医薬大学終身教授である厳振国が、1970年代に経穴解剖学科と中医応用解剖学科を創設したことにより、经穴断面解剖学や经穴层次解剖学、经穴CT扫描图像解剖学などの研究が盛んになったと言われている。その後、医師の鍼灸事故に対する意識が高まると同時に、病巣深部への適切な刺鍼法が研究され、鍼用具の改良・進化も飛躍的に進んだ。その結果、瞬時に痛みを無くすことが可能な小针刀疗法や浮针疗法、黄帝针、超微针刀疗法、铍针疗法などといった画期的な刺鍼法が発明され、特に2000年代にかけて、科学的で再現性が高く、安全な鍼灸術が普及するようになった。

 

一方、日本においては、浅野周先生が2006年に翻訳した刺鍼事故の本以外、特にこれといった本は出版されていない。そのため、日本では鍼灸事故に関する研究が全く進んでおらず、未だ刺鍼深度について漠然と議論しており、穴位断層解剖の研究も全く進んでいない。また、鍼灸事故の研究が成されねば、当然ながら安全かつ効果的な刺鍼法が確立されるはずもなく、例えば、比較的軽症な慢性腰痛や慢性頭痛の類でさえ、科学的かつ再現性のある刺鍼法によって1回で劇的に改善させたり、3回以内で完治させることができる鍼灸師が皆無に等しく、学会で「どうすれば慢性腰痛や慢性頭痛を治せるのか?」などと議論しているような有様である。鍼灸事故に関しても、ヤフーニュースなどで定期的に報道されているものの、鍼灸団体による事故の詳細な検証や業界への注意喚起、事後報告などは慣例的に行われておらず、事故が発生したことさえ知らない鍼灸師や業界関係者も少なくない。ちなみに、浅野周先生が翻訳した刺鍼事故の本は中国で1980年代に出版された古い本で、記されている情報があまりにも古いため、現在、私が2000年代に出版された鍼灸事故の某書を翻訳している。

 

日本で未だに鍼灸事故が絶えないのは、過去の事故からのフィードバックがなく、業界や鍼灸師自身の各穴位に対する解剖学的知識や、刺入深度や刺入方法、施灸法に関する基礎的な知識の欠如が主因と考えられる。実際、日本の鍼師は刺鍼深度に明確な基準を備えていないことが多く、己の感覚のみを頼りに漠然と刺鍼しているとか、安全深度が同じはずの穴位においても刺鍼深度が一定していないとか、浅い刺鍼では効果がないと言って無暗やたらに刺鍼深度を深くしすぎてしまうとか、様々なケースが見られる。

 

また、日本では、鍼灸事故に関する文献が極めて少ないため、鍼灸の副作用についてよく理解していない鍼灸師が多く、何の根拠もなく、「鍼灸には副作用がありません!安全です!」などと喧伝している自称プロが少なくない。

 

例えば、鍼にはいくつかの副作用がある。一般的な副作用は強刺激の留鍼による迷走神経反射で、めまい、吐き気、倦怠感などが多くみられる。その他、一過性の疼痛増悪や内出血、鍼依存などがみられることもある。臨床経験を積んでゆく過程において、鍼灸の副作用をいかにして避け、最大限の効果を上げるかは大きな難題であり、賢明な鍼灸師においては、昔から解決すべきテーマの1つとなっていた。

 

長時間または長期間にわたる留鍼(鍼を皮下へ刺したまましばらく置く刺鍼法)は、血管の自律的収縮・拡張作用を阻害する可能性がある。留鍼の刺激強度が過剰であると、施術期間が長期にわたるほど、偏頭痛や血管拡張性頭痛が悪化したり、各種疼痛が増悪したり、最終的には長期の断続的侵害刺激による脳機能の低下(鬱や強い倦怠感、鍼依存など)がみられることがある。

 

上海市中医薬科技情報研究所所長で、著名な中医である張仁が2004年に記した『针灸意外事故防治』には、“针灸依赖症(鍼灸依存症)”について、以下のように記してある。

 

【原因】

(一)年龄因素(年齢的要因)

针灸依赖症的确切原因不明。经对39例针灸依赖症分析结果表明,与患者的性别、职业、文化程度关系不大,似多见于40~49岁的年龄段和已婚者。(鍼灸依存症の正確な原因は不明である。39例の鍼灸依存症の分析結果によれば、患者の性別、職業、教養レベルとの関連はあまりみられず、40歳から49歳までの既婚者に多くみられた)

(二)其他因素(その他の要因)

一般来说与以下情况有关。(一般的には以下の状況と関連がある)

(1)因患功能性疾病,而寻求针灸治疗手段者。(機能性疾患を患っているため、鍼灸治療に活路を求めてきた者)

(2)慢性病患者,用他法效果不明显,曾经经针灸治疗而取得一定疗效者。(慢性病患者で、他の治療法では明らかな効果が見られず、かつて鍼灸治療で一定の効果を得ている者)

(3)有神经质或心里素质不稳定的患者。(神経質な素質がある、または心理的素質が不安定な者)

(4)因好奇,想与其他治疗手段作比较者。(好奇心で、他の治療との効果を比較したい者)

据作者临床观察,以前三者多见。形成针灸依赖症,还要有两个先决条件:一是医生必须为病者所信赖,二是针灸治疗确有一定效果。(著者の臨床経験では(1)から(3)のケースが多く見られた。鍼灸依存症の形成には、さらに以下2つの条件を満たすことが必要である。1つ目は医師が患者から信頼されていること、2つ目はその鍼灸治療に一定の効果が確実にみられること、である)

 

また、張仁は、「鍼灸依存症患者は、鍼灸に対する強烈な心身依存や、治療後の多幸感や疼痛、不快症状の軽減または消失などがみられ、多針、多灸、強刺激を好む傾向にある。さらに、患者は一旦鍼灸治療を中止すると症状が悪化し、口実を見つけて能動的に鍼灸刺激を求めることがあり、鍼灸治療歴が長いほど依存は起こりやすい」とも記している。

鍼灸依存症は、主として断続的かつ強烈な留鍼刺激による脳への侵害刺激と、脊髄への反射(軸索反射)で起こる、半ば強制的な血管拡張作用によって誘発されると考えられる。そのため、刺激量を適切にコントロールすれば、鍼灸治療の副作用を避け、ベネフィットを最大限に享受することが可能となるが、施術が不適切であれば、患者は不利益を被る可能性がある。