中国北方では、冬至に餃子を食べる習慣がある。日本でも餃子は人気のある料理の1つであるが、元々は餃子が薬であったことを知る人は少ない。

 

中国北方は北極に近いため、冬季は気温が氷点下20-30℃を下回ることが少なくない。それゆえ、中国最大のECサイトである天猫や淘宝では、厳冬前になると、-10~40℃対応の様々な防寒具が売りに出される。ちなみに、一昔前の北京では、厳冬期は朝になると、浮浪者や酔っ払いの凍死体がそこら中に転がっていたという話がある。

 

現代のようにインフラが整備されておらず、防寒具や暖房器具が十分でなかった古代中国では、さぞや厳しい冬を過ごしていたであろうと想像される。実際、古代には凍傷に苦しむ貧困層が無数にいたようで、東漢期(西暦202年-220年)には「医聖」と称せられ、のちに「建安三神医」の一人として数えられた中医、張仲景が、凍傷の治療法を考案している。ちなみに、「建安三神医」とはほぼ同時期に活躍した中医のことで、自ら開発した麻沸散(世界初の麻酔薬)で開腹手術を行うなど、各地に神医の名が相応しい奇跡の逸話を残した華佗、膨大な処方収集と独自処方の発明を巨著『傷寒雑病論』としてまとめた張仲景、山奥に隠居して多くの患者を無料で治療し、杏林の逸話を残した董奉の3人への尊称である。

 

張仲景は南陽西鄂の生まれで、幼少時から医学の勉強を好み、若くして名医と称された。長沙太守として勤め、多くの患者を診ていたが、ある冬の日、故郷である南陽の人々を治療するため、退職して地元へ帰ることになった。故郷への帰路、張仲景は白河(長江の支流)のほとりに住む、痩せこけた長沙の貧民たちが、みな耳に酷い凍傷を負い、飢餓に耐えながら凍えている光景を目の当たりにした。南陽へ戻った張仲景は、すぐに「祛寒嬌耳湯」と名付けた処方を考案した。そして、弟子を遣わして、南陽東関の空き地に小屋を建てさせ、大鍋を用意し、凍傷を負った貧民たちに「祛寒嬌耳湯」を無料で振る舞った。この日はちょうど冬至だった。張仲景と弟子は、翌月30日まで毎日「祛寒嬌耳湯」を作り続け、一日も休むことなく、凍傷の治療に専念した。

 

「祛寒嬌耳湯」は身体を温める作用の強い羊肉と、祛寒(寒邪を駆逐する)作用のある唐辛子、生姜、肉桂などを大鍋で煮たあと、一旦取り出し、すべて小さく刻んで小麦粉の皮で耳の形を模して包み、再び大鍋で煮込んだら出来上がる。「嬌耳(餃子)」2つと「祛寒湯(餃子を茹でた煮汁)」で空腹を満たした人々は、身体の奥底から温まるような感覚と、耳が発熱するような感覚を得て、耳の凍傷は次第に完治し、再び耳が冷えることは無くなった。

 

中国には「医生难治自己的病(医者は自分の病を治し難い)」という言い伝えがある。張仲景は神医と称されたが、やはり神ではなく人であった。ほどなくして、張仲景は病に倒れた。彼は、自分の生命の火が燃え尽きようとしていることに気が付いていた。長沙人は、長沙は風水的に優れた場所であるから、張仲景が百年後も無事でいられるよう、張仲景を長沙に連れ戻すべきだ、と主張した。しかし、南陽人はこれに反対した。ある年の冬、張仲景は息を引き取った。この日は奇しくも冬至だった。

 

張仲景は、「私は長沙の水を飲んで育ち、長沙の人々の恩を忘れることもできないし、南陽に生まれ、南陽の人々育ててもらった恩も忘れることはできない。だから、私が死んだ後は、みなで棺桶を南陽から長沙へ向けて運び、灵绳(棺桶を引っ張る紐)が切れた場所に埋葬して欲しい」という遺言を残していた。張仲景の死後、人々は遺言通り、棺を南陽から長沙へ向けて運び出した。長い長い葬列が、かつて張仲景とその弟子たちが「祛寒嬌耳湯」を振る舞った小屋の付近へ差し掛かると、突如として、棺桶につながれていた灵绳が千切れた。

 

南陽人と長沙人は、この地に留まり、共に協力し、黙々と墳墓を築いた。張仲景は川のほとりにある、彼の地に埋葬された。これが現在の医聖祠である。張仲景の死後、人々は彼の恩を忘れぬため、冬至には必ず餃子を食べるようになり、凍傷になる者もいなくなった。

 

※古代中国では、餃子は娇耳→角子→饺子と名称が変遷している。これを中国語では谐音と言い、同様の発音の漢字を当てている。