不着、誤配をほとんどしない優秀な配達員は、しばらく経つと、どの区域にも属さない「代配者」として、配達を任されるようになる。つまり、ある区域の担当者が休んだり、欠員が出るたび、その区域の配達を代わりに請け負う、フリーランスのような配達員に昇格する。
「代配者」にもランクがあり、数区域のみの代配から、最終的には全区域代配可能なレベルへと、順次アップして行く仕組みだった。
その当時、私が所属していた販売店の総契約件数は、約5000件であった。最上位の「代配者」になると、約5000件の顧客の位置関係が常時、頭の中にインプットされていた。
取扱っていた新聞は十数銘柄あり、朝日、日経、日刊スポーツ、デイリースポーツなどの主要紙以外に、株式新聞や流通新聞、金融新聞、つり新聞、小学生新聞、中学生新聞などの専門紙も配達していたが、優秀な「代配者」は、各戸のポストの形状や場所、契約している新聞の種類、何時頃に新聞が抜かれるかなど、全て暗記していた。
まだナビゲーションシステムが普及していない頃、ロンドンの優秀なタクシー運転手は、空間把握を司る海馬が発達していた、という話を聞いたことがあるが、おそらく、かつての新聞配達員も、海馬が発達していたのだろうと思う。ちなみに「代配者」になると、特別手当として約2万円が、毎月別途支給された。
「代配者」になってしばらく経つと、「転送者」と呼ばれる地位にランクアップすることができた。「転送者」とは、いわゆる配達責任者のことで、主な仕事は現場の管理と「転送」だった。
当時、私が所属していた新聞販売店は、某沿岸市内全域を配達区域としていた。販売店に最も近い区域は第1区、販売店から最も遠い区域は第14区と呼ばれていた。数字が大きくなるほど、販売店からの距離が遠くなる、という区分だった。
週末になると新聞やチラシの厚みが増すため、1度にバイクに積める新聞の量が少なくなる。それゆえ朝刊配達時は、通常2~3回は販売店に戻り、新たに新聞を積んで配達に出なければならなかった。
第1区や第2区であれば、常に販売店の周囲を配達しているから、たとえ販売店に新聞を取りに戻ったとしても、ロスタイムはほとんど無い。しかし、第13区や第14区になると、配達地点から販売店まで往復10キロ以上あるため、販売店まで新聞を取りに戻るとなると、相当なロスタイムが発生してしまう。
また、1区域の配達件数は平均350件程度で、そのうち50件くらいは時間指定があったから、少しでもロスタイムを減らすため、予めその区域ごとに転送場所を2~3ヶ所設け、新聞を「転送」してもらう必要があった。
つまり「転送者」は、配達員が1回で積み込めなかった、配るべき残りの新聞を、配達員がその転送場所に辿り着く前に先回りして、置いておくのが主な仕事だった。したがって、「転送者」は全ての配達区域に精通している、「代配者」以上のレベルでないと務まらなかった。
基本的に配達業務には、新聞配達専用に開発された50ccのホンダ製プレスカブか、ヤマハ製メイトが使われていた。しかし、50ccのヤマハ製メイトは2ストロークゆえ、マフラー内部の灰の除去を定期的に行わねばならぬなど、メンテナンス性が劣っていたため、最終的にはプレスカブ一色になった。
プレスカブはビルの5階から落としても、エンジンオイルの代わりに食用油を投入しても走り続けると言われたほど頑丈に作られていたため、東南アジアでは爆発的な人気を誇っていた。それゆえ沿岸区域の新聞販売店では、窃盗団によるプレスカブの盗難が相次いでおり、新車のプレスカブを与えられた配達員は、カブが盗難されて東南アジアに売り飛ばされぬよう、ヒヤヒヤしながら運転しなければならなかった。
その後、4ストになったタウンメイト90が発売されると、最も巡行距離数が多い第14区のために、高価なタウンメイト90が、1台だけ配備されることになった。
当時、中型免許を所持していたのは「転送者」に昇格した私と、第14区担当のMさんだけで、発売されて間もないタウンメイト90に乗ることができたのは、我々2人だけだった。
我々は嬉しさのあまり、用もないのに社用のバイクを乗り回すことになってしまったわけだが、誰もいない明け方の海岸沿いを、出来立てホヤホヤのタウンメイト90で走り抜けた爽快さは、今でも忘れられない。