通常、朝刊の配達は深夜1時30分~朝6時まで、夕刊の配達は14~16時までだった。他には月に2回くらい、朝6~9時までの電話当番があった。
電話当番は、朝刊配達完了後から事務員が出勤してくる朝9時まで、新聞販売店内に設置された電話の前に、ボーっと座っているだけで良かった。しかし、運が悪い日は、不着(新聞が入っていない)や、誤配(違う新聞が入っていた)の電話がバンバンかかって来るため、3時間の電話番はあっという間だった。
Aコースの奨学生は、毎日約6時間の配達業務に加え、集金業務として月末25日~翌月10日まで、30時間ほど多く働かなければならなかった。 Bコースの奨学生は、基本的には朝夕刊の配達のみだったから、毎日の労働時間は6時間前後で済んだ。
しかし、実際には配達区域によって、労働時間および労働量に大きな格差があった。例えば、2~5階建ての、エレベーターおよびオートロックがないアパートやマンション、県営住宅が密集しているような区域では、朝刊時は上階まで新聞を運ぶのが鉄則で、酷暑や雨の日が続くと、逃げ出したくなるほどキツかった。
また、配達部数もピンキリで、楽な区域だと朝夕刊合わせて300部程度、最もキツい区域だと朝夕刊合わせて600部超えで、2時間程度の余分な労働を強いられた。
ちなみにこの時、法律上、5階建てまでのマンションにはエレベーターを設置しなくても良い、ということを知った。
新聞奨学生を無事卒業することができる学生がいる一方で、「追わないでください」と記された謎のメモをちゃぶ台の上に残して夜逃げする学生が少なからず存在したため、突如として、担当区域が変更になることがあった。
私は配達が速い上に誤配、不着する件数が少なかったためか、いつもキツい区域ばかりを担当させられた。それゆえ、配達中、いつも頭の中には、「早く辞めたい、早く辞めたい」というネガティブワードが延々とこだましていた。とにかく、毎日のルーティンワークと学校の宿題をこなすことだけで、あっという間に1日が過ぎ去ってゆく日々だった。
新聞は毎日刷られるモノであるから、当然ながら、毎日交代で誰かが新聞を配達しなければならなかった。しかし、1年で1日だけ、1月2日だけは朝刊も、夕刊も、配達しなくて良かった。
新聞業界には「新聞休刊日」という、各新聞社同士で予め取り決められた、新聞配達員の慰労デーみたいな日が、年間約12日あった。
「新聞休刊日」は毎月第2月曜日だったが、1月2日以外は夕刊の配達が必須だったから、全く心が休まらなかった。
槍が降ろうが、大雪の翌日で路面がガチガチに凍結していようが、朝晩いづれかの配達業務は毎日必須だった。それゆえ、1年で唯一ホッとできる日は、元旦の朝刊を配り終えたあとの、約1日半だけだった。