鍼灸院において、設備がボロくても絶対にコストを削ってはならないのは、唯一の道具である鍼と灸である。
そのコストを削ってしまえば、安全かつ効果的な施術を提供できないばかりでなく、重大な鍼灸事故を起こすリスクが高まる。
中国では刺鍼事故予防のため、1990年代からディスポ鍼の使用が普及しており、現在では、ほとんどの医師が単回使用のディスポ鍼を使用している。再使用可能な従来の鍼を使う医師はほぼみかけない。
中国で鍼を試験管に入れて滅菌して再使用していたのは、今から半世紀近く前、1980年代以前の話である。
ちなみに、いわゆる試験管滅菌は、試験管先端部を開口した状態での滅菌となるため、EOG滅菌によるブリスターパック包装や一般的な滅菌バッグ包装による滅菌と異なり、構造上、そもそもは滅菌自体が破綻している。また、鍼尖を痛めないように、試験管内に綿花を詰めるケースも見られるが、綿花を無交換のまま放置しておけば、蒸気を吸った綿花が次第にカビてしまい、最悪の場合はカビの繁殖によって、ボロボロになった真っ黒な綿花が試験管内で胞子のように飛び散り、鍼体全体が汚染された腐海状態に至る可能性が高まる。
現在は、日本でもディスポ鍼が普及しているが、再使用可能鍼に対する需要は根強く、市場ではディスポ鍼と再使用可能鍼が混在して販売されている。ちなみに、最も感染リスクの高い、三稜鍼や梅花鍼などは、中国ではすでにディスポタイプが普及しているが、日本においては未だディスポタイプが製造、販売されていない。
また、日本鍼灸界で特に問題なのは、メーカーがディスポ指定している単回使用鍼を、幾度となく再使用している鍼師が非常に多いことである。しかしながら、未だメーカー指定のディスポ鍼を複数回使用することに対して、危機意識のある鍼師は極めて少ない。
特に、銀鍼や、通電、不適切な洗浄や滅菌を繰り返した鍼は、折鍼事故のリスクが高まるが、患者は左様な現状を知る由もない。
さらに、灸も粗悪品を用いれば、ヨモギ本来の効能が得られないばかりでなく、硫黄燻蒸処理などによる着色料の残留物や、その他の混入異物の燃焼などによる有害煙で、術者と患者双方に、呼吸器系への悪影響が及ぶ可能性がある。
これまで、当院では、中国と日本で販売されている数十種の灸製品を実際に臨床上で使用し、その真贋と効能を確かめてきた。
現状では、古代中医として最も著名な李時珍が『本草綱目』に記した、蕲春(現在の黄岡市蕲春県)産ヨモギを原料にしたもぐさが最上である、という結論に至っている。
一般的に、日本産のヨモギは最大でも30-40cm丈程度で成長が止まってしまう。一方、蕲春産ヨモギは、北緯30度という類まれな育成環境によって、茎の高さが2m余りに達する。しかも、葉が大きく、腺毛密度が高いため、ハッカのような爽やかな香りが濃厚で、熱浸透度が非常に高いと評価されている。陈宋良という学者が記した、『艾叶、野艾及细艾的比较鉴别』という論文によれば、蕲春産ヨモギは一般的なヨモギに比べ、精油量が約1.23%で2倍前後、テルピンやp-シメン、ユーカリプトール(シネオール)、γ-テルピネン、4-カレン、α-ツヨンなどの微量元素も豊富であるとされている。
中国では、もぐさの原料であるヨモギは「百草の王」であるとされ、三千年以上にわたり、病気の治療などに用いられてきた。長きに渡る知恵と経験から、もぐさは端午節の前後1-2週間の間に収穫し、倉庫で3年間寝かせ、石臼と杵で低温加工したもぐさが最も薬効が高く、最上とされている。
ちなみに、李時珍の『本草綱目』には、『(艾叶)自成化以来,则以蕲州者为胜,用充方物,天下重之,谓之蕲艾。(ヨモギの葉は成長後、蕲州産が最良で、蕲州の特産物として、多くの人が蕲州産ヨモギを重要視しており、「蕲艾」と称されている)』と記されている。実際、現在では「中国艾都(ヨモギの都)」と称される蕲州産のもぐさが最上級品として取引されている。
もぐさは上級、低級に関わらず、偽物や粗悪品が少なくないが、素人にはその真贋や等級を正確に判別し難い。最も簡単な鑑別法は、もぐさを水中に入れてかき混ぜ、不純物の有無を観察したり、実際に点火してそのもぐさの燃え方や煙、臭いなどを観察することである。
粗悪なもぐさは水中で汚物を吐き出し、水底に沈殿し、水質を汚染するため、水がこげ茶色に混濁する。また、燃焼時間が極端に短く、圧縮密度が低いために短時間でボロボロと崩れ去り、輻射熱はただ熱いだけで、じんわりと皮膚の奥まで温まるような熱感は皆無である。さらに、新聞紙や古紙を燃やしたような煙が室内に多く充満し、周囲に悪臭が漂い、煙が目に沁みる。
残念ながら、中医鍼灸関連の古典が正確に邦訳されず、『本草綱目』でさえ馴染みのない日本においては、蕲州産ヨモギを原料にしたもぐさが普及しておらず、真のもぐさの存在や、もぐさの鑑別法について知らぬ鍼灸師が大半を占めている。おそらく、蕲州産ヨモギについて言及し、その効能の素晴らしさを知らしめようと行動しているのは、当院長が日本初であろうと思われる。実際、日本国内で蕲州産もぐさについて記した文献は皆無に等しい。
THE TSUBAME STORE(Amazon店)では、薬効が最も高まる端午節の1週間前後に収穫し、その後3年間熟成させた蕲春産ヨモギと、艾葉紙、糯米糊のみを原料にし、極力高温処理を避け、無添加、無着色で加工した『QICHUN』を販売している。この商品は1個あたりの燃焼時間が12分前後で、使い切りタイプの切りもぐさである。そのため、棒灸フォークなどを用いれば、臨床現場やご家庭における補助治療として至極簡便にご利用いただける。
当院では、火とヨモギのみを用いた、古代叡智の結晶である真のもぐさ療法を普及させ、日本鍼灸のレベル底上げに貢献したい、と考えている。