穂掛祭は曜日に関わらず、毎年8月28日に行われている。東出雲に隣接する、中海の神石である「一つ石」から揖夜(いや)神社まで、約1kmの陸路を、舟で往来する神事だ。日本の沿岸部では、豊漁を祈願した、舟を使う神事がよく見られるが、実際にこういった祭りを見るのは初めてだった。

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北京堂発祥ハウスから揖夜神社までは、揖屋駅の上にかかる歩道橋を渡り、そこからさらに10分ほど歩かねばならなかった。お父さんは80歳を超えているにも関わらず、毎日しんぶん赤旗をせっせと配っていたゆえか健脚で、ついていくのが大変だった。

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歩道橋を渡って少し歩くと、中海から商店街に舟が戻ってきているのが見えた。船の底には車輪が付いていて、それを山車のように数人のオッサンが曳(ひ)いていた。舟は数種あり、子供が乗り、お囃子(はやし)をしている船もあった。

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荷台に、ねぶた祭で使うような灯籠や提灯を載せて、のんびり走っている軽トラもあった。

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松江市にはこんなに人がおったんか、というくらいの人出で、立ち止まって写真を撮るのに一苦労だった。私が「出店(でみせ)が沢山並んでますね」と言うと、お父さんは、「昔は出店がもっと沢山ありました。〇〇から来ているテキヤも多く、〇〇もありました」と、地元民しか知らないような衝撃的なネタをサラリと語った。都会に比べて娯楽の少ない地域であるから、地元民にとっては今も重要なイベントの1つになっているのであろうな、と想像した。

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結局、揖夜神社に来てみたものの、すでに神楽や安来節などの演目は終わっていたようだった。とりあえず、揖夜神社の由来が書かれた看板を眺めることにした。どうやら、揖夜神社は揖屋ではなく揖夜と書くらしい、ということをここで知った。出雲大社と同様、大社造のようだった。

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揖夜神社の創建については不明だが、日本書紀出雲国風土記延喜式神明帳などに、揖夜神社と思しき記載があり、平安期より前には存在していたらしい。また、三代實録には、清和天皇貞観十三年に、正五位下の御神階を賜ったとの記載があるそうだ。

特に神社で見るべきものがなかったので、北京堂発祥ハウスへ戻ることにした。実際には「戻ることにした」というより、我々はお父さんの後ろを、お父さんの意思に従って、お父さんの行きたい方向に歩いていただけだった。祭りのメイン通りから離れると人がまばらで、まさに田舎の商店街、という雰囲気が露骨に感じられた。

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お父さんは往路よりもゆったりと歩きながら、時々立ち止まっては、観光ガイドのように建物の歴史などを語った。くみたけ百貨店は親戚が経営しているそうだ。現在は、近くにコンビニやイオンが進出したためか、大そう哀愁漂う感じだったけれど、半世紀くらい前は、本当に百貨店のような存在だったのかもしれない。

しかし、組嶽とは珍しい苗字だ。店頭には祭りを眺めるためと思しき椅子が、2つ置かれていた。そういえば以前、お母さんが、「周はこの時期になると必ずこっちへ帰ってきて、友達とお酒を飲みながらお祭りを眺めるのが好きなのよ」と、言っていたことがあった。きっと師匠は、くみたけ百貨店の前の椅子に座っていたのかもしれないな、と想像した。

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くみたけ百貨店のすぐ近くには、越野とうふ店があった。お母さんはここの天ぷらが大好きだった。私が松江の北京堂にいた頃は、お母さんは出来立ての越野の天ぷらを買い、定期的に持って来てくれた。ちなみに、アルコールで脳が委縮していたためかどうかは今となってはわからないが、お母さんは毎回、「東京の人はこういうものを食べたことがないでしょう」と言っていた。慈悲深い私はその都度、「はい、食べたことがありません」と答え、天ぷらを受け取らねばならなかった。

松江には他のメーカーの天ぷらもあったけれど、やはり越野のモノが一番美味かった。松江では、天ぷらよりもあごの野焼きが有名だけれど、私は越野の天ぷらの方が好きだった。ちなみに、松江で言う天ぷらとは、魚のすり身を挙げた薩摩揚げみたいなモノのことだ。

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しばらく歩くと、揖屋駅を示す看板の手前に、「いやタクシー」と書かれた看板が見えた。「揖屋タクシー」と書くと読めない人が多いから、あえて平仮名の屋号にしたのであろうが、どうもタクシーを毛嫌いしている個人が掲げている看板のようにしか見えなかった。かつて、B級雑誌として一世を風靡したGON!が生き残っていたら、微妙な看板として、雑誌に掲載されていたかもしれない。

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商店街を抜けると、右手にローソンが見えた。まだ開店して間もない雰囲気で、物珍しそうに中を伺う地元民で賑わっていた。

さらに先へ行くと、「三菱農機」と記された看板が見えた。ここから先は三菱農機の工場地帯らしかった。東出雲と言えば、農業機械のパイオニアとされる三菱農機が最も有名かもしれない。三菱農機の全盛期は、町内にはもっと活気があったらしい。

お父さんは我々の前を歩きながら、「東出雲町松江市との合併を頑(かたく)なに拒んでいたのは、三菱農機に勢いがあったからです」と、出雲訛りの標準語で言った。

私とこびとは、東出雲にこんな大きな工場があったんか、と驚きつつ、お父さんと最初で最後の夜のお散歩を終えることにした。別れ際、お父さんが、「明日、一緒に黄泉比良坂(よもつひらさか)へ行きませんか」と言った。私は、黄泉への入口とされる黄泉比良坂には以前から行ってみたいと思っていたため、快諾した。