先日、久々に師匠の治療を見学するため、小菅の北京堂へ行ってきた。まぁ久々とは言っても1年くらいしか経っていない。
とりあえず、今年北京で買うべき本を一冊教えてもらった。線維筋痛症の治療法が書かれている数少ない本だ。人民衛生出版社の本屋は店員がクソみたいな感じだけれども、出版社自体には良書が多い。
私がすかさず写真を撮ろうと表紙をフォーカスしたら、「こうやって撮ったほうが良いでしょ。」と、師匠が背表紙をこちら側へ向けてくれた。確かに背表紙を撮っておいた方が本屋で探しやすい。やはり師匠はアタマが良い。
私は北京堂の内弟子になってからだいたい6年くらいが経つのだけれど、未だに1年に数回くらいは師匠のところへ行って、己の技術を再確認するようにしている。島根で初めて独立した頃に比べれば遥かに技量は上がっているとは思うが、まだまだ満足出来るレベルには達していないから、より上を目指して精進しなければならぬ。
基本的に北京堂では半年~1年くらいが弟子入り期間と決められていて、その後は師匠の下を離れ、独立開業しなければならないことになっている。しかし、特に細かいカリキュラムが組まれているわけではなく、その都度来院する様々な病態の患者を診ながら治療というモノを随時覚えていくシステムになっているため、弟子によっては習得出来なかった技術がそのままに、独立してしまうことも珍しくない。
ゆえに弟子によっては得手不得手があったり、技術のレベルに差があったりする。あまり覚えの悪い弟子は破門になったりするケースもあるから、北京堂という看板を掲げている鍼灸院は他院に比べればそれなりの技量を持ち合わせていると思われるが、屋号が同じだから全く同じレベルの施術を受けることが出来るかというと、そういうわけでもないらしい。
北京堂グループはいわば暖簾分けとかフランチャイズみたいなものだけれど、結局は技術職であるから、外食産業のように全店ほぼ同じサービスを提供し続ける、ということを実現するのは難しい。例え同じように教えてインプットさせているつもりでも、弟子によってアウトプットの仕方は様々だし、その解釈が異なっていたりするもんだから、師匠と完全に同じように施術するというのは土台無理な話である。
しかしながら出来る限り師匠の技を真似て、より効果的な施術が出来るよう努めることは可能なわけで、独立した直後は下手くそであっても、弟子の努力の如何によっては師匠と同じくらいのレベルの施術を提供することが可能であろうし、創意工夫によっては師匠を超える技術を習得することも不可能ではないはずだ。
芸事には守破離という言葉があるが、どんなテクニックも、まずは基本を完全にマスター出来ていなければ、その先の段階へ進むことは出来ない。基礎的な部分を疎かにしたままでは、いつかは技術的な面で行き詰まるだろうし、最悪は己の技術レベルが低いことや技術面に誤りがあることにさえ気が付かないまま、あらぬ方向へと暴走してしまう可能性もある。
毎日毎日、先生先生と呼ばれ続けていると、己が未熟であるという事実を、己は熟達しているという記憶に無意識に刷り変えてしまったりして、果てには自分がカリスマであるとか、ゴッドハンドであるとか勘違いして、最終的にはあの鍼灸師は老害であると陰口を叩かれても気が付かない、というパターンになることも少なくない。実際に、日本の鍼灸業界にはそんな輩と、それらを取り巻く愚者が数え切れないくらい実在する。
つまり、最初は自分の愚かさに気が付いていても、アホな取巻きに祀り上げられてゆくことで、次第に自分の都合の良いように記憶を入れ替えて、自分が高尚な人間であると思い込むようになってしまうのである。
世阿弥の『花鏡』には「初心忘る可からず」という言葉があるけれど、謙虚さを失った鍼灸師ほど不愉快なものはない。師匠のところには日々、数多見学者が訪れているけれども、初対面にも関わらず、タメ口で馴れ馴れしく話しかけてくる鍼灸師には本当に辟易してしまう。ちなみに以前、私が弟子入りしていた頃、そういう無礼な鍼灸師がいたもんだから、私がほぼ無視を決め込んでいたら、後日、師匠に「あの弟子は陰湿ですね」などと悪口を言っていたらしい。まぁ、アホな鍼灸師の話など今となってはどうでも良いが、ブログを書いていたら、そんなことがあったのを思い出した。
基本的に私は「The Mentalist」のPatrick Jane並みに観察眼が優れているからか、アホな鍼灸師やトラブルメイカーな鍼灸師は一瞥してしてわかるので、端から関わらぬようにしている。まさに転ばぬ先の杖とか、濡れぬ先の傘とか、良い内から養生とか、触らぬ神に祟りなしとか、寝ていて転んだ例はないとか、故事格言にある通りである。昔は色々と失敗して苦労したから、とにかく最近は慎重である。
そんなこんなで、私は惰性で鍼灸業を営み、無駄にキャリアだけを積み、鍼灸業界の「頂点」でふんぞり返っている老害にならぬためにも、毎年1回は師匠のところへ行くようにして、初心を忘れず、驕らぬよう己を戒めている。