久々に師匠に針を打ってもらうため、師匠ハウス(小菅の北京堂)へ行ってきた。もう何年も針を打ってもらっていないから、背中がかなり凝っていた。

9:30の予約だったから、遅れないように7:30に家を出た。渋滞が無ければ45分くらいで到着するが、朝はどのルートで行ってもラッシュは避けられぬから、最低でも2時間前に出ないと間に合わない。

甲州街道はいつも通り高井戸の交差点で渋滞していたが、何とか40分くらいで永福町を通過して、首都高に入ることが出来た。幸い首都高は空いていて、C2(環状2号線)から千住新橋まではガラガラだった。今は小菅ジャンクション付近の4車線化工事の真っ最中だから、北京堂最寄りの小菅出口は封鎖されていて出られなくなっている。

そもそも、神田橋から6号線を抜けて小菅へ行くルートは、C2ルートとは対照的に元々湿地帯だった場所で震災の時に崩落しないとも限らないし、何より交通量が多くて、特に小菅出口手前での車線変更がリスキーだから、C2ルートで地下を抜けてゆく方が安心感がある。

小菅には9:00前に到着した。早く着き過ぎるのも迷惑だろうと思い、北京堂近くのコモディイイダというスーパーで時間をつぶすことにした。

2Fの駐車場に車を止め、1Fの入口へ降りると、地元民らしき人々が今か今かと開店するのを待っている姿が見えた。

店員が自動ドアのロックを外すと、地元民が我先にと水汲みスポットへ駈け出した。どうやら、開店早々に水をもらいに来たらしい。

とりあえず、店内を徘徊したあと、自宅用のスリッパを2つ買って、師匠ハウスへ行くことにした。スリッパが島根なみに安くて、少し感動した。

9:00の予約が入っていなかったから、一番乗りだった。1Fのベッドで施術してもらうことになった。同伴していた嫁に刺鍼中の動画を撮ってもらっていたが、撮影中におかんから電話がきたため、一旦撮影を中止せねばならなかった。師匠は手を止めないもんだから、一部動画を撮り損ねてしまった。

おかんはこの日の前日に、渋谷のオーチャードホールで某歌手のコンサートを観ていたらしいのだが、ライブ中、突然天皇陛下が現れて、自分のすぐ近くに座ったもんだから、その興奮を誰かしらに伝えたいらしかった。 f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150057j:plain

与太話をしながら針を刺してもらっていると、鍼灸師のFさんが出勤してきた。最近は毎日のように見学しに来ているらしい。まことに誠実そうな人だ。師匠は鍼を刺し終えると、2Fへ上がって次の患者の治療を始めた。天井からドスドスと慌ただしく歩き回る音が聞こえたが、それほど気にならなかった。

10:30からは私も見学させてもらう予定だったので、30分くらいの留針で抜いてもらうことにした。とにかく三角筋への刺鍼が痛過ぎた。久々に刺鍼したこともあり、抜鍼後はしばらく動けなかったが、何とか気合で起き上がり、白衣を着て2Fに上がった。

2Fの患者の施術が終わると、今度は1Fに患者が来た。肩周りが異常に硬い患者で、刺鍼される度に悲鳴を上げていたが、患者が悲鳴を上げる度に、師匠はニタニタしていた。

午前中、最後の患者の施術が終わると、師匠は冷凍庫からおもむろに「モナ王」を箱ごと取り出し、「あんたらもせっかく来たんだから、良いものをあげましょう」と言って、アイスを1つずつ差し出した。師匠はFさんにも「あんたも食べる?」と言ったが、Fさんは「僕はいいです」と答えたため、師匠は「あっそ」と言った。

こういう時は、喜んでアイスを頂戴するのが北京堂の弟子の流儀である。「空きっ腹にいきなりアイスを食べたら血糖値が急上昇して危険だろう」など野暮なことを考えて、師匠の好意を拒否してはいけない。アイスを食べながら、しばし与太話をしたあと、帰ることにした。

外の気温はすでに30℃を軽く超えていて、日差しがジリジリと地面に照りつけていた。車に乗り、千住新橋を渡って、久しぶりに上野でブラブラしてから帰ることにした。浅草に行っても良かったが、最近の浅草ランチは暴利を貪っている感じがあるため、あまり昼時に行きたいと思わない。

上野に車で来た場合、上野公園下の京成上野駅駐車場に止めるのが無難だ。出入りしやすいし、丸井やヨドバシカメラで商品をなんぼか購入すると、最大2時間まで無料になる。

本当は恐竜展を観に行こうかと思っていたが、すでに終了しており、観たい展示がなかったので、駅前を徘徊することにした。

12時を回っていたので、先にランチを食べることにした。とりあえず、駐車場と提携している丸井で食べることにした。

食事を終えて外へ出ると、田中真紀子氏が演説していた。どうやら選挙に出馬する夫の応援らしい。田中真紀子氏は小柄なお婆さんという感じだった。テレビで観るより小さく観えた、というのはよくあることだ。大して興味が無かったので、アメ横をブラブラすることにした。f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150125j:plain

アメ横ですれ違う人の8割以上が中国人と白人、という感じだった。最近は成金タイプの爆買い中国人が減った代わりに、ミドル層の中国人が増えているらしいが、確かにそんな風貌の中国人が多く歩いていた。

中高生の頃、アメ横にはよく来ていたが、あの頃の客層とは随分違ってきているように感じた。あの当時はアメ横のあちらこちらに、黒人やら中東系の外国人がうろついていて、束になった偽造テレホンカードをペラペラめくりながら近寄って来ては、「10マイ1000エンダヨ!」と耳元でささやいて、購入を迫ってきたりして、やかましかった。その当時はまだ携帯電話なんて普及しておらず、ポケットベルが大流行していた時代だったから、金の無い中高生はアヤシイ繁華街の片隅で偽造テレホンカードを購入しては、公衆電話を使って、大して内容のないメッセージをやり取りしていたものだった。f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150302j:plain

当時はスマホなんて便利なものは想像出来なかったが、本当に科学技術というものは日進月歩で、あと20年も経ったら、iPhoneなんて化石に等しいくらいガラパゴス的な存在になっているかもしれない。

20年前のアメ横と言えば偽造テレホンカードのほかに、中田商店のイメージが強い。中田商店は今もアメ横に健在の、マニアにはよく知られたミリタリーショップだ。私が中学生の頃は、何故か米軍のフライトジャケットが大流行していて、みな質の良いMA-1を羽織ることに憧れていたから、なけなしの金を握りしめては、中田商店へ行ったものだった。中田商店には米軍払い下げ、モノホンの軍モノが並べられていたから、涎を垂らして通い詰めるマニアも少なくなかった。f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150339j:plain

中田商店近くには、中国式に、カットしたフルーツを割りばしに刺して売っている店があった。北京でも夏になると、路上の屋台で長細くカットしたハミウリなんかを、串刺しにして売っている。ここでもスイカやメロン、パイナップルを串刺しにして売っていた。主に中国人が喜んで買っているようだった。f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150328j:plain

しばらく歩くと、ケバブ―を売っている店が見えた。ケバブ―の店は原宿と秋葉原で見た以来だ。トルコ人らしき男の店員が店頭に2人立っていて、店の前を通りかかる人を強引に引き込もうとしていた。「ケバブ、タベヨウヨ」などと馴れ馴れしい日本語で通行人を塞ぐように営業するもんだから、大抵の人は嫌がって近寄らないようだった。

ケバブの隣は中国人が経営するいわば小吃(軽食)な店で、店頭では揚げたての油条を売っていた。油条はいわば揚げパンみたいなもので、日本の揚げパンとはちょっと違うが、中国ではメジャーな軽食である。よく朝っぱらからこんな脂っこいもん食べるな、と思うが、北京では朝食で食べる人も少なくない。

東京では珍しいから、思わず「油条だ」と中国語でつぶやくと、店頭で客引きしていた中国人のオバハンが、「おいしいよ。中で座って食べてって」と中国語で話しかけてきた。昼食を食べたばかりだったので、断ることにした。何となく店にカメラを向けると、店頭のオバハンは笑顔でおどけたポーズをとった。f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150351j:plain

少し歩くと、仮面を売っている店があった。アメ横は通りを外れると途端に人気が失せる。ガード下には年季の入った小さな店が密集していたが、どうやら全面改装するのか、ほとんどの店が養生シートで覆われていた。f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150402j:plain

御徒町まで行くのは面倒なので、Uターンして上野駅方面へ戻ることにした。再びガード下でウロウロしていると、突然、見知らぬオバハンが片言の日本語で「スイマセン」と声をかけてきた。

どうやら中国人観光客らしい。オバハンは中華製スマホの画面を私の方に向け、何やら日本語をしゃべろうとしているように見えたが、勉強不足なのか、それ以上、言いたい日本語が出てこない様子だった。

画面を見ると「百货公司」とだけ表示されていて、スマホの辞書アプリを使って表示したらしいが、日本語は表示されていないかった。私が「baihuo gongsi」と中国語で読み上げると、オバハン3人は声をそろえて「哎!」と叫んだ。日本語しか通じないと思っていた人間が、予想外にもいきなり中国語をしゃべったから、喜びつつもビックリしたらしい。

そもそも「百货公司」の「公司」は「~会社」の意味だと覚えていたし、「デパート」に該当する中国語は「百货商店」か「 百货大楼」のはずだろうと一瞬戸惑った。しかし、どうみても観光客らしきラフな格好をしたオバハン達が、これから何某かの会社を訪問するような雰囲気でもなかったから、きっと「百货公司」は「デパート」の意味だろうと判断して、スマホの画面を指さしながら「ここへ行きたいんですか?」と中国語で聞いてみた。

すると、スマホを差し出したオバハンが嬉しそうにうなずきながら、スマホを指さして「Go!Go!」とわけのわからぬ英語をしゃべるので、「この付近にデパートは無いですよ」と中国語で答えると、オバハン達が「谢谢」と言って会話が終了した。

そういえば、さっき行ったばかりの丸井がデパートみたいなもんだな、などと思いついたりしたが、丸井は基本的に若者向けだから、あの中年中国人の好みでは無いかもしれないな、などと勝手に判断した。

あまりにも暑いので、上野公園入口付近のビルにある、タリーズコーヒーへ行くことにした。嫁はタピオカ入りの冷たいミルクティーを飲みたいと言った。どうやらこのビルは最近出来たようだが、確かここには上野土産で有名な饅頭屋があったはずだ。f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150426j:plain

タリーズコーヒーは満席だったので、しかたなくテイクアウトして、再び街を徘徊することにした。何となく、さっき見かけた中華系軽食店にあった煎饼が気になっていたので、買いに行くことにした。煎饼は北京の屋台でよく見かけるファストフードだが、北京では衛生的に危なそうな雰囲気が多かったから、これまで食べたことがなかったのだ。で、話のネタにするため、一度は食べてみようと思った。

店の前にはさっきと違う中国人のオバハンが立っていて、「煎饼果子を1つ下さい」と中国語で言うと、「ここで食べるか、持ち帰りか?」と聞いてきた。すかさず私が「带走,带走(持ち帰り)」と答えると、オバハンは厨房に向かって「煎饼果子一个,打抱!」と叫んだ。オバハンに300円を渡すと、オバハンはニコニコしながら「あんたら日本人?」と中国語で言い、椅子を差し出して、座って待つよう促してきた。店の奥では、中国人らしき先客が豆乳を飲んでいた。中国人は本当に豆乳が好きだな、と思った。

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改めてメニューを眺めると、あやしい日本語が書かれていることに気が付いた。メニューには「煎饼果子(菓子入り焼き餅)」と書かれていたのだ。「煎饼」は日本語的に読めば「せんべい」だが、中国語の「煎饼」はせんべいでもなければ餅でもない。「果子」は本来は「馃子」の意味で、油条や焦圈儿などの揚げパンを意味する。

そもそも、煎饼果子は天津発祥の小吃で、天津の方言で油条を果子と呼ぶから、煎饼果子と呼ぶだけの話だ。歪果仁、特に漢字圏の日本人は、油条が包んであるのに何故に果子と呼ぶのかという疑問を抱いていたかもしれない。

「果子」には、古い中国語では菓子を意味するが、おそらくこの店の看板を作った中国人が日本語の「菓子」と勘違いして、「揚げパンを挟んだ中華風クレープ」と訳すべきところを、「菓子入り焼き餅」と誤訳したのであろうな、と想像した。「菓子入り焼き餅」と言ったら、日本人はアツアツのお餅の中に、アンコやぷっちょなんかが入っていると思うに違いない。

5分くらいして商品が出てきた。小麦粉と刻みネギ、卵を混ぜて焼いた生地に、甜麺醤を少し塗って、レタスと油条を挟んだだけの煎饼だった。果子も菓子も入っていなかったし、甜麺醤が甘すぎて、私の嗜好には合わなかった。「菓子入り焼き餅」だと思って食べた日本人は、「なんじゃこりゃあヾ(*`Д´)ノ!」と発狂するかもしれない。

中華系軽食店に別れを告げ、再び来た道を戻ると、中国人との会話を盗み聞きしていたらしきケバブ売りのトルコ人が、我々に向かって「ケバブ、ハオチー、ハオチー」と慣れ慣れしく話しかけてきた。どうやら私が中国語を話していたから、我々を中国人だと思ったらしい。トルコ人には中国人と日本人の見分けがつかぬのだろう。今度、機会があったらケバブを買ってあげよう。

アメ横を抜けて、上野公園へ行くことにした。身長に比して明らかに顔がデカすぎる西郷さんの銅像を見つつ、寛永寺へ向かった。昔は、このあたりにホームレスが沢山いたものだが、今も似たような人がチラホラいた。

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寛永寺へ行き、月の松を見た。広重が描いた松とは大違いで残念だったが、まぁ趣があって良かった。寛永寺徳川家康が天海という謎多き坊主に作らせた、鬼門封じの寺としてマニアには有名だ。江戸城から見て表鬼門、丑寅の方角に位置していて、江戸を守る結界を張るための重要な寺だったと言われている。江戸城、つまりは今の皇居の表鬼門に位置するスカイツリーと、裏鬼門に位置する東京タワーは、東京の結界を破るために秘密結社の陰謀によって建設されたとまことしやかに囁かれているが、真実はどうなのだろう。確かに、あんな電波塔があの2か所にあるのは不可解だ。荒俣宏の本を愛読していた青春時代の私なら、きっと将門の怨念だとか、わけのわからぬことを想像してしまいそうだが、きっと庶民には将来も真相などわからぬだろうと思う。f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150455j:plain

寛永寺をお参りした後は不忍池へ行って、弁天堂へお参りすることにした。嫁と参道を歩いていると、大胆にも素手でたこ焼きを食べている白人家族がいた。このあたりは何故か中国人よりも白人が多かった。みな一眼レフを首からぶら下げて、写真を撮っていた。 f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150518j:plain

お堂の横にある休憩所では、観光客らしき白人少女2人が、小さな亀を片手にスマホで写真を撮っていた。どうやら、地元民らしきジジイが、自分が飼っている亀を連れてきて、観光客が座るテーブルに放して、遊んでいるようだった。老若男女が集う境内で、可愛げなteenagerばかりを相手に亀を放している様子は、どうも猥褻な感じと言うか、スケベな感じがしたが、もしかしたら私の豊かな想像力が暴走しているだけかもしれぬから、放置することにした。 f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150528j:plain

その後はしばらく、池の中にチョコチョコ咲いている蓮の花を眺めたりしていたが、あまりにも暑いので、帰宅することにした。  

自宅へ帰る途中、新宿通りでピーポ君とピー子を見つけたので、ここぞとばかりに、記念撮影しようということになった。早速、交差点を左折し、新宿2丁目付近の「男性マッサージ専門」という怪しげな看板を掲げた店の近くのコインパーキングに車を止め、急ぎ足で交差点へ向かった。

しかし、ピーポ君とピー子の「中の人」の勤務時間は17時までらしく、通りかかった時は16時50分くらいだったが、無慈悲にも2匹は交番に吸い込まれるように消えてしまって、記念撮影は出来なかった。f:id:tokyotsubamezhenjiu:20160713150548j:plain