2014年12月、師匠のお母さんの訃報を人伝に聞いた。

2013年頃からお母さんは3度目の癌で自宅療養をしていた。2013年9月、私が島根での任務を終えて東京へ発つ前日、お母さんは私を御自宅へ招待して下さり、山陰での最後の晩餐として、山陰の名物を御馳走して下さったのだが、その頃からすでに衰えが見え始めていた。私が2010年に初めて島根入りした頃に比べると、癌が再発してからは体重の減少が著しく、急速に体力が落ちてきている様子だったので、何となく死期は悟っていた。

人はいつか亡くなるものだけれど、やはり何かしらの関係にあった人の訃報を不意に聞かされたりすると、何とも言えぬ空虚感が心中にモヤモヤと湧き上がってくる。

結局、葬式が終わってから訃報を聞かされたこともあって、2015年2月に島根へ飛ぶことにした。49日は過ぎているから、お父さんの気持ちも少し落ち着いていて、私が挨拶に行くのには適している頃合いだろうと予想していた。

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北京堂鍼灸はいまや全国的な広がりを見せる鍼灸流派だが、元々は約30年前に島根の東出雲で、中医翻訳家でもある浅野周先生が始められた鍼灸院にルーツがある。現在も9号線沿いに「北京堂鍼灸」の看板を掲げる一軒家を望めるが、浅野先生は今は東京の葛飾で営業されているため、東出雲で北京堂の治療を受けることは出来ない。

しばらく島根でゆっくりしたいところだったが、患者を抱えているとそう長く休むことは出来ないので、日帰りすることにした。

羽田から午前の便で米子空港まで行って、レンタカーを借りてから東出雲へ向かった。島根には3年以上住んでいたから、大方の地理は頭に入っている。米子空港から大根島を抜けて、裏道を通れば35分くらいで東出雲に到着する。

事前に連絡していたので、お父さんはスンナリと家の中へ通してくれた。寂しそうに見えたが、いつも通りの素振りだった。とりあえず東京から持参したお供え物を渡し、仏前で手を合わせた。もうお骨は墓に移してあるとのことで、お父さんを車に乗せて、一緒に墓参りすることにした。線香は持参していたが、墓前に供える花がなかったので、近所の「まるごう」というスーパーで、花と酒を買うことにした。

墓地は最近出来たという新しい区画にあって、これまで見たことが無いタイプの墓が並んでいた。線香に火を点けて、花と酒をお供えして、しばしお父さんと会話してから、墓地を後にした。

もう昼が近かったので、お父さんを誘って昼飯をご一緒することにした。やはり、お父さんは長年のパートナーであるお母さんを失って、少なからず悲壮感が漂っていたから、半日でも話し相手が出来るのは良いだろうと思った。

昼食は東出雲町のお隣、安来市(やすぎし)にある蕎麦屋へ行くことにした。東出雲から車で10分くらい、9号線沿いにある、まつうら、という蕎麦屋だ。

出雲蕎麦といえば、灰褐色でザラザラした舌触りの割子(わりご)が有名だが、まつうらの蕎麦は出雲蕎麦と更科蕎麦の中間みたいな感じで、東京人が好みそうなタイプの蕎麦である。お父さんも過去に何回か来たことがあるそうで、美味いと喜んでいた。

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蕎麦を食べながら色々な想い出話をした後、せっかくだからお母さんが好きだった出雲大社へお参りしようということになった。お父さんは車の免許を持っていないらしく、普段の移動は専ら自転車で、遠出する時はお母さんが運転する車に同乗していたようだった。お母さんが体調を崩して運転が出来なくなってからは、しばらく遠出はしていなかったらしく、出雲大社へのドライブを殊の外喜んでいるようだった。

お父さんが食べているうちに会計を済ませ、先に払っておきましたと告げると、「昼食は私がおごるつもりでした。では越野の天ぷらをお土産に買ってあげましょう」と言うので、出雲大社へ行く前に寄り道することになった。

松江といえば茶菓子が有名だが、魚肉を加工したかまぼこや、天ぷら(魚肉のすり身を蒸して揚げたモノ。衣を付けて揚げた天ぷらではない。)もマイナーながら売れているらしい。また、松江の御土産ではあごの野焼き(春頃から日本海を北上してくる飛魚をすり身にして、山陰の地酒などを混ぜて焼いた「ちくわ」みたいなモノ)や、スト巻き(かまぼこをストローで巻いたモノ)がメジャーだが、私は最もマイナーな天ぷらが好きである。

中海(宍道湖の隣にある汽水湖)に隣接する東出雲町には、好立地ゆえかかつては魚肉を加工する工場が林立していたらしいが、現在は数か所を残すのみで、ひっそりと営業しているようだった。お母さんは大の天ぷら好きで、特に越野という会社の天ぷらを好んで食べていた。私に松江の天ぷらの美味しさを教えてくれたのはお母さんだった。

私が松江で北京堂を経営していた頃は、お父さんが鍼治療に訪れる度に、付き添いで来たお母さんが越野の天ぷらを御土産に持参してくれて、「都会の人はこういうものを食べたことが無いでしょう」といつも気を使って下さったのだった。

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越野のかまぼこ工場は中海湖畔からすぐの場所にある。基本的には工場での直販はしていないようだが、地元民は購入出来るようだった。お父さんは慣れた感じで天ぷらを2袋購入し、私に持たせてくれた。工場を出ると見知らぬ軽自動車が停めてあったのだが、お父さんは誤ってそれに乗り込もうとしていた。

松江から出雲大社へは、宍道湖の北側を走る湖北線と、南側の9号線、さらに南側の山陰道、3つのルートがある。生前、お母さんは「慣れない高速道路を緊張しながら走るよりも、宍道湖の湖面にユラユラと浮かぶカモを眺めながらゆったり運転する方が、精神的に楽で良いのよ。」と言っていた。

しかし、お父さんは高齢で長時間車に座るのが辛そうだったので、往路だけは山陰道を使った最短のルートで出雲大社へ向かい、復路はお母さんの好きだったルートを使うことにした。ちなみに復路だと宍道湖が左側に位置するので、助手席から湖上をのんびりと泳ぐカモが見えやすい。

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出雲大社平成の大遷宮がやっと終わってスッカリ綺麗になっていたが、鳥居の修復工事が行われていて、正面からは入れなかった。とりあえず平日の出雲大社は参拝者が少なくて快適だった。 

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あまり知られてはいないが、出雲大社宮司は元々は千家さんと北島さん両家が交替でお勤めしていて、イロイロあった後、現在は千家さんが出雲大社宮司となっている。そして、これに不服な北島さんは、出雲大社のすぐ隣に社を建て、傍から大国主命をお守りしている、という構図になっている。ゆえに地元民以外にはほとんど知られていないようだが、出雲大社のすぐ右手には、いわば「裏出雲大社」が存在する。お母さんは北島さんの方に熱心だったので、出雲大社をお参りした後は、北島さんの所へお参りしてから、帰ることにした。

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何だかんだで出雲大社を出て、東出雲に戻る頃には、夕暮れが迫っていた。束の間のドライブを楽しんだ後、北京堂の生誕地でお父さんとお別れした。その後、大根島を経由して米子へ向かう途中、中海の向こうへ沈む夕日が綺麗だったので、空き地に車を停めて、しばし眺めたりした。

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時間に余裕を持って東出雲を出発したので、米子空港へ行く前に、境港の魚山亭へ寄って夕食をとることにした。これまで様々な魚料理を食べてきたが、ここの定食が今の所一番美味い。いつか山陰へ来ることがあったら、また食べに来よう、と思った。

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